2020年12月31日木曜日

大晦日

 2020年も残りわずか。社会的にも辛い年だったが,個人的にもとても辛い年だった。しかし,どんなに辛くても,やはり一日一日は変わらず過ぎていく。ヘミングウェイの小説での「陽はまた昇る(The Sun Also Rises)」の意味は,この「変わらず過ぎていく一日一日」への,どうしようもない気持ちなんだろうが,僕は「きっと太陽は昇ってくるのだ」という意味でこれを使いたい。来年は良い年になってほしい。


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雪だるま

 昨晩,寒波到来,強風が吹き荒れ雪が降った。この辺りは年に二度ほど雪がつもる。昨晩の雪は屋根と庭にうっすら積もる程度だったが,5歳と3歳の兄妹が早朝,小さな雪だるまを作るには十分だ。今日は大晦日。



2020年12月20日日曜日

冬至

 明日12月21日は冬至。北半球では一年で一番日照時間が短い。冬至といえば,かぼちゃ,柚子湯を思い浮かべる。事実,いつものパン屋さんでは,この季節にちなんでなんだろう,レジの横に「ご自由にお取りください」と段ボール箱にいっぱいの柚子が置かれていた。パンを買ったついでに,3ついただいてきた。しかし,今回の版画はそのような冬至の文化的側面ではなく,科学的側面から冬至を描いたものにした。



冬至は,太陽黄経270度で,「他の条件が等しければ」その位置はもっとも低く,影が一番長くなる日だ。版画は,夕日が沈むのを見る仲の良い幼い兄と妹,そしてその長い影を描いている。篆刻はもちろん「冬至」。


「他の条件が等しければ」という言葉から,ふと自分のやってきた仕事のことを思い出した。一生懸命何かを分かろうと努力してきたが,分かったこと以上に,分からないことがどんどん増えていくだけの40年間だった。まさに一歩前進,二歩後退。

「他の条件が等しければ」をラテン語で言えば,ceteris paribus(ケテリス・パラバス,英語読みしてセテリスという場合もある)なんだが,僕のやってきた仕事はすべて,この言葉に支配され,得られた結論はすべてこれが前提となっている。

林檎の価格が上がれば林檎の需要が減少するという「需要の法則」一つをとっても,林檎以外の価格が変化しないことが条件となっている。林檎の価格以上に蜜柑や梨,葡萄などの価格が上昇すれば,林檎の需要がどうなるかはわからない。

結局は僕のやってきた分析は,この言葉に尽きるのだが,現実の世界では,林檎の価格だけが上がって,あとは蜜柑も梨も葡萄も価格に変化はないということはあり得ない。世の中では,あらゆるものが同時に,あるときは勝手気ままに,あるときはそのように動かざるを得なく動いているのである。

現実には起こり得ないが,他の条件が等しければ,何が起こるかを知ることは,それでも重要である。たとえば「運動すれば体重が減る」ことは確かだが,同時にたくさん食べると体重は減らないかもしれない。だからといって運動をすれば体重が減ることを知っても意味はないというわけではない。そう自分に言い聞かせながらやってきた。

僕は実証経済学というものを生業としてきたが,大げさに言えば,このceteris paribusの状態に近い状態で現実のデータの動きを分析するということに悪戦苦闘してきた。つまり今思えば,40年間,現実の動きを,ceteris paribusによる動きと,そうでない動きに分離しようとしていたのだ。

「机上の空論」という言葉がある。確かに机上だが,決して空論ではないと自負している。しかし,今はもうそんなことを考える必要もない。少し寂しい気もあるが,それよりも肩の荷が下りた解放感が優っている。後はもう,次の世代に任せよう。

二十四節気の版画と判子は今回で終。正式には二十四節気は2月の立春に始まり,1月の大寒で終わるのだが,僕は西暦に対応して,今年の1月の小寒(山茶花)から始めたため,今回の冬至が最後になる。今後は,もっと自由に版画を作ろうと思う。

(追記)もっとも日が短いのは冬至だが,日の出がもっとも遅いわけではない。日の出がもっとも遅いのはおおよそ冬至の一ヶ月後だ。







2020年12月16日水曜日

寒波到来 雲龍院悟りの窓

 日本を寒波が襲っている。北国の大雪はもちろのこと僕の住む地域でも今晩から雪が降るとの天気予報だ。テレビによると昨日は京都で初雪が降ったらしい。雪の降った夜の次の朝はしみじみとした趣がある。「春はあけぼの・・・」で始まる枕草子には

「冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず・・・」

とある。

雲龍院は京都の南東に位置する,とても趣のあるこじんまりした素敵なお寺だ。そこには「悟りの窓」と呼ばれる丸い窓がある。僕は何年か前,紅葉の季節に訪れただけだが,今朝,悟りの窓からの景色はさぞ綺麗だっただろうことは容易に想像できる。

木版画は,その想像の産物。木版画教室でH先生から習った「ぼかしの手法」を使って早朝の空を描いてみた。まるまって寝ている猫は,寒い朝を表している。



雲龍院のハンコは「雲」,「龍」,「院」の三つに分けて刻した。こんなハンコの彫り方,押し方は,篆刻家と呼ばれる人たち(自称篆刻家も含む)からは叱られるかもしれないが,僕はそんな高尚な芸術家ではない。自分が楽しむための趣味だし,自分だけでなく,それで周りの人たちがちょっぴりハッピーな気持ちになれば良い。

ところで,「龍」が上下逆さまになっているのには訳がある。つまり「龍」は雲の上から舞い降りてきているのだ。なぜかって?もちろん新型コロナウイルスを退治するためだ!

参考のため,上下正しい「龍」を押した木版画を掲げておこう。


なんとなく,龍は上下逆さの方が座りが良く感じるのは僕だけだろうか。24節気の版画も次の冬至で終わりとなる。それが終われば,僕が好きな京都のお寺を木版画と篆刻で紹介しようと計画している。






2020年12月15日火曜日

月がとっても青いから

美術館の木版画教室で知り合ったK.Y.さんは僕と同い年,とても魅力的な女性だ。イニシャルはK.Y.だが,決して空気が読めない人ではない。それどころか協調性のない僕が,版画教室にうまく溶け込めたのも,彼女の気配りのおかげだと感謝している。僕と同年齢とは言え,年配の人が多い版画愛好家の中では若手に分類されるようだ。 何かと気を遣って,周りの人をちょっぴりハッピーにするという彼女ならではの役目を果たしている。

今回もコロナ禍の自粛モードで,塞ぐ気持ちを少しでも前向きにと,ベートーベンのコンサートのチケットを手配してくれた。一緒に行ったのは,K.Y.さんと他二人の木版画仲間の女性の合計四人。演目は,交響曲2番,三重協奏曲,最後は6番(田園)。




会場は体温のチェック,手指の消毒,両隣一席空けて座ることになっておりコロナ対策は万全。そもそもコンサートは全員が同じ方向を向いているし,特にクラシックでは息を凝らして聴いているので飛沫感染の確率も低いと思う。二階ちょうど真ん中の席は,クラリネットの真正面。そして後で知ったことだが,奏者は山本正治,十亀正司という豪華メンバー。6番はクラリネットが活躍する場面が多い。久しぶりのコンサートを堪能した。




コンサートがハネたあと,少し肌寒かったが幌を開いて帰った。帰宅後,K.Y.さんに「今日はありがとう」と連絡すると,しばらくたって「今日は月が綺麗だったから,駅から30分歩いて帰宅した」との返事があった。当日,月が青かったか,白かったか,黄色だったかは思い出せないが,なぜか「月がとっても青いから,遠回りして帰ろう」という古い歌を思い出した。戯れに木版画を作ってみた。コンサートの後は,いつもハッピーな気持ちになる。

2020年12月6日日曜日

大雪

明日12月7日は大雪。いよいよ12月に入り,寒さも一段と増した。大雪はその字の通り。日本の北端ではもう1メートル近く雪が積もっているそうだ。版画に特に説明は不要。以下の文章を引用するだけで十分だ。


キリマンジャロは、高さ19,710フィートの,雪におおわれた山で,アフリカ第一の高峰だといわれる。その西の頂はマサイ語で,「神の家(ヌガイエ・ヌガイ)」と呼ばれ,その西の山頂のすぐそばには,ひからびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている。そんな高いところまで,その豹が何を求めて来たのか,今まで誰も説明したものがいない。

ヘミングウェイ/龍口直太郎訳『キリマンジャロの雪』

僕も今,確実に「神の家」へ向かって,一歩一歩登っている。12月に入り,中学・高校の同級生H君が亡くなったとの知らせがあった。H君とは特に親しかったわけではなく,卒業後も数回会っただけだ。しかし,中学・高校時代,彼には圧倒的な存在感と包容力があり,彼は僕にとってヒーローだった。そのため,亡くなったということを知り,身体中から悲しみがこみ上げてくるような感覚を覚えた。その悲しみと喪失感はなかなか治らない。

ぼーっと生きていると危険だ!

トイレの手すりで頭をしこたま打った。手すりというか硬い金属製のハンガーのようなもの。尖った角で打ったため,少しだけだが血が出てきた。それもすぐに止まったから大丈夫だろうとたかを括っていたのだが,夜になると傷口がズキズキ痛むし,打った側の目や耳まで痛いような気がする。しかし,肩こり...