2022年5月28日土曜日

ヘミングウェイへのオマージュ

どう言うわけか,最近昔読んだ本のことをよく思い出す。記憶は曖昧なのだがなんとなくイメージとして残っているものはヘミングウェイのものが多い。これは僕の記憶の特徴というのではなく,彼の書くものの特徴がそうであるためかもしれない。戯れに,そのイメージを木版画にしてみた。

The Old Man and The Sea

 

老人はたえまなくゆっくりと漕いでいた。自分の力の範囲内で漕いでいる分には,たいした努力はいらない。潮流がときたま渦をつくっているところがあるが,海面は板のように平らだった。老人は力の三分の一を潮流に預けていた。そろそろ東の空が明るみはじめる。気がつくと,時間の割にはかなり沖に出ていた。

ヘミングウェイ/ 福田恆存訳『老人と海』(新潮文庫)

 


The Sun Also Rises

 

「人生が飛び去っていくのに,ぼくはほんとうには生きていない。そう思うと堪えられない」

「人生を完全に生き切るなんて,闘牛士くらいしかいないさ」

ヘミングウェイ/ 土屋政雄訳『日はまた昇る』(ハヤカワepi文庫)



The Snows of Kilimanjaro

 

キリマンジャロは,高さ19,710フィートの雪におおわれた山で,アフリカ第一の高峰だといわれる。その西の頂はマサイ語で,「神の家(ヌガイエ・ヌガイ)」と呼ばれ,その西の山頂のすぐそばには,ひからびて凍りついた一頭の豹の屍が横たわっている。そんな高いところまで,その豹が何を求めて来たのか,今まで誰も説明したものがいない。

            ・・・ 

彼は,自分の行くところはきっとあすこだなと思った。

 ヘミングウェイ/ 瀧口直太郎訳『キリマンジャロの雪』(角川文庫)


ヘミングウエイには頭に残るイメージが他にもいろいろとある。また折を見て木版画にしたいと思っている。

 


 

 



 

2022年5月23日月曜日

裏庭の風景:5月

月名のハンコが完成した。そもそも毎月のハガキの木版画に添えようと作成したものだ。月々の裏庭の風景を木版画にすることにした。立派な花や木はないが,僕の日常の風景を伝えられたら望外の喜びだ。5月の版画は二階の窓から見えるヤマボウシ。

 ヤマボウシの花は生い茂る緑の葉の上に,天に向かって咲くので地上から見ていると花が咲いているのがわからない。二階の窓から下をみてはじめてヤマボウシの花が咲き乱れていることがわかる。

花は白い。そのため白い紙にそのまま摺ればほとんど輪郭が見えない。そこで版画の背景を色付けし,花の部分をくり抜くことにした。サイズはいつものようにハガキサイズ。絵の中に「皐月」のハンコを添えた。「皐月」は「早月」とも書かれ,早苗を植える月とのこと。

裏庭のヤマボウシ

炎天の 日差しに耐えよ ヤマボウシ

夜の雨 濡れてさびしき ヤマボウシ



2022年5月21日土曜日

月のハンコ

裏庭に咲く花々や,実を結ぶ小さな果実を見るのは楽しい。そんな楽しみを友人にも少しお裾分けしたく,それらを題材にこれから新たに毎月木版画を作成しようと思う。木版画に添える毎月の月名のハンコを作成した。ハンコは原則として12ミリ四方(四分)。水無月,神無月は三文字なので9ミリ×18ミリの長方形。デザインはあまり伝統的な篆刻にとらわれず,見てわかる文字を方針に少しモダンなものも取り入れた。

英語では(ドイツ語でも,イタリア語でも)各月は独自の名前を持っている。欧米では人々は日常生活で各月を固有の名前で呼ぶのに対し,日本では,一月,二月と番号で表すのが普通である。英語で言えばJanuary,Februaryを単にThe first month,The second monthと言うのに等しい。なんとも味気ない。日本語でも睦月,如月と呼ぶ方がずっと趣がある。

例によって「芸術的」な篆刻作品を作る気は毛頭なく,篆刻が木版画を説明し,また木版画が篆刻を説明することが目的だから,欠けも歪みも気にしない。経費節約のため長さ5センチの石をノコギリで半分に切ってみた。まあ経費節約というより,単に街までわざわざ出向くのが面倒だから手元にある石を利用したわけだ。押印する時に,圧力がかけ難く,多少不便だがその他は問題なし。

月名:石のハンコ

ハンコを押す印箋も自作。横山大観の雲上富士のパロディー「雲上キリマンジャロ」を作成した。簡単な図案だが,サイズは8センチ×19センチ,美術展で求める一筆箋と同サイズ。真っ白の和紙や味気ない図柄の印箋よりハンコが映える。


キリマンジャロは今作成しているもう一つの木版画に転用予定。5月の庭の花は既に下絵はできている。早速彫って,摺って,皐月のハンコを添えてみよう。



姉を訪ねて三千里(その四)

 腹ごしらえも終わり,いよいよ最終行程。四万十川の川幅は狭くなるが,いくつかの沈下橋を眼下に見ながら381号線を四万十町へ向かう。

やっぱり沈下橋

川幅が狭くなると急流が目立つ

とうとう四万十川から離れた。実は「いの町」には大学のゼミの後輩のC君が住んでいる。地元で家業を継ぎ,いまは大きな製紙会社の社長。ただし伝統的な和紙産業ではなく,衛生,介護用品を製造販売する総合的な製紙会社に発展させたということだ。連絡を取ったが,突然のことだったので彼は現在鹿児島に出張中。

日も暮れるころ明石大橋に到着。神戸は目前。今回の小旅行もいよいよ終わり。当初の目的はほとんど達成。動き回れる時に,これからも愛車でいろんなところへ行ってみよう。

夕暮れの明石大橋






姉を訪ねて三千里(その三)

朝起きると本日も快晴。今日はいよいよ日本最後の清流,四万十川をめぐるドライブだ。中村駅の観光案内所で四万十の簡易地図をもらい見所を教えてもらう。さっそく四万十川沿いに国道441号線を遡るドライブに出発した。四万十川の見どころは澄んだ流れはもちろんだが,沈下橋という都会では見ることの出来ない橋にある。洪水時に橋が流されないように欄干が無く増水すれば橋は水面下に隠れてしまう。まず最初に出会うのは佐田沈下橋。河原まで降りると屋形船が浮かんでいるが誰も人はいない。流石に水は澄んでいて綺麗。

人影は少ないが二人連れが橋を渡っている。歩いてみると幅は十分あるのだが欄干がないためなんと無く気持ちが不安定だ。まったく車は走っておらず,果たして車で通行して良いのかどうかがわからない。

佐田沈下橋

佐田沈下橋を過ぎればすぐに三里沈下橋に到着する。少し川幅が狭くなり水もより一層綺麗になった気がする。ここでもやはり人影は無かった。

三里沈下橋

次に高瀬沈下橋に向かう。441号線は国道とはいうものの道幅はすれ違うのがやっとというほど狭くやたらと工事中区間が多い。緑の中の川沿いのワインディングロードをオープンエアーで走行するのはなんとも気持ちが良い。高瀬沈下橋に到着。なんとここでスイスイと橋を渡る軽四輪トラックに遭遇。車で渡ることができるんだ!

高瀬沈下橋

橋を渡る軽四輪トラック

渡ってみようと思ったが,やはりなんと無く不安がつきまとう。つまり,

  • もし橋の途中で対向車に出会ったらどうするんだろう。相手が後退してくれると良いが,後退しろと言われた時,真っ直ぐに後退する自信がない。しかし後退できないというのはプライドが許さない。愛車はもちろんバックモニターもついていない。
  • 万が一脱輪して転落しても死ぬことはないだろう。しかし僕が乗っているのはやたら目立つ自動車だ。つまり6速マニュアルトランスミッションのオープンカー,スポーツカーなのだ。こういう車でオートマチック車に乗るのはなんともみっともないと思う。
  • そんな自負のある僕が脱輪して転落すれば,目立つことこの上なく,恥ずかしい。「高齢者,スポーツカーで脱輪し沈下橋から転落。車は大破したが幸い本人に怪我はなし」という新聞記事が目に浮かぶ。

というわけで今回は徒歩で楽しむことに決定!徒歩でも欄干がないためなんとなく気持ちが落ち着かない。そうこうしているうちに,勝間沈下橋に到着。河原まで降りて行くことができた。橋の上には人影が。この橋が一番趣のある沈下橋だったように思う。

勝間沈下橋

最後は岩間沈下橋。駐車場で観光タクシーに出会い。橋の途中で対向車と出会えばどうするのか尋ねてみた。既に橋を渡っている車があれば橋の袂でそれが渡り終えるのを待つというのがルール。橋の上は前進あるのみとのこと。しかし地元の人はルールを知っているが来訪者はそれを知らない。事実僕は知らなかったし,そういうもの同士が鉢合わせすることもあるだろう。まあ今回はやめておこう。

岩間沈下橋

実は岩間沈下橋の前に口屋内沈下橋というのがあったのだが,途中道路工事区間があったりして,うっかり見過ごしてしまったようだ。迂回路を通ればあったのかもしれないが,,,。お昼前に道の駅よって西土佐に到着。案内所でおしえてもらった鮎のお店に直行。鮎の身がこんなに多いとはいままで知らなかった。小骨の間から身を削ぐようにして食べるのが鮎だと思っていたが,四万十の鮎は背中からガブリ。ゴロリと身がとれるという感じ。美味かった〜。

鮎の塩焼き











2022年5月20日金曜日

姉を訪ねて三千里(その二)

お昼過ぎ,松山を出発し,宇和島を通り海岸沿いを一路四万十へ。今日の目的地は足摺岬。海岸の道路沿いには穏やかな海が広がる。幌全開でとても気持ちが良い。途中何人ものお遍路さんに出会った。そうだ,四国はお遍路さんの島なんだ。

海岸の道路沿いの穏やかな海

御荘,城辺,宿毛といった懐かしい場所を通り,四万十市に着いたのは6時を過ぎていた。そして念願の足摺岬に到着したのは空が赤く染まる直前だった。断崖にひっそりとたつ白い灯台は,緑色の光を放ち,独特の雰囲気がある。ここが四国の最南端だ。あたりにはもう誰もいなかった。田宮虎彦の『足摺岬』にとうとう来たのだと感慨深い。

余談だが,木版画の「スリ」は「刷り」ではなく「摺り」と表記する。木版画を習い始めた頃,なんかあまり普段は使わない漢字をわざわざ使うことにペダンチックな感じがして,違和感があった。事実,僕はこの「摺」という漢字を日常生活でこれまで使ったことが無い。しかし,足摺岬の「摺」はまさに,木版画の「摺」だということに足摺岬の道路標識を見て今頃気がついた。

断崖絶壁の灯台

緑の光を放つ灯台

夜8時過ぎホテルに到着。一人でホテルに泊まるのは何年ぶりだろう。定年の直前に,共同研究の最終仕上げのためオランダとイタリアへ出張した時に泊まって以来だから,実に三年ぶりの一人旅だ。実は僕の仕事は定年前と定年後で大きな違いははい。定年前も週に何度かの講義以外は時間的な制約はほとんどなく,毎日職場には通ったが何時までにというようなこともなく,用意ができたら職場に向かい,仕事が自分なりにひと段落したら帰宅するという毎日だったから定年後の今もそんなに変わらない。

そんなことを考えながら,ふと定年前と定年後の大きな違いに気がついた。25歳で助手に採用されてから39年間ずっと,自宅の部屋以外で自分一人だけで過ごすことができる「研究室」というものがあったのが無くなってしまったことだった。自宅に部屋はあるものの,独立感が全然違う。不謹慎ではあるが,研究室は研究をする場所だけではなく,誰にも邪魔されずに生きることができる僕の精神の駆け込み寺だった。一人旅でのホテルの一室はその「精神の駆け込み寺」を思い出させてくれる。

研究者生活の最後を過ごした研究室


海外のホテルほどはゆったりした部屋ではないが,四万十で泊まったホテルには共同の大浴場があった。幌を全開にしたオープンエアーのドライブは爽快だが,実は排気ガスのせいか顔がすごく汚れることはあまり知られていない。大浴場でゆっくり体をほぐし,横になるとそのまま眠ってしまった。


姉を訪ねて三千里(その一)

ふと姉に会いたくなり,10年ぶりに姉を訪ねた。突然電話をして突然訪ねた。義理の兄が死んでから,Y姉さんは松山に一人で住んでいる。本当は,どんなに年老いてしまったかとても不安だった。しかし,昔のままと言えば言い過ぎだが,大好きだったやさしく綺麗な姉とほとんど変わってなく,とても嬉しかった。あっというまに夜中になってしまうほど話し込んでしまった。

炎天に 姉を訪ねて 三千里 

夏の午後 十年ぶりの 姉の声

炎昼に 手を振る姉を みつけたり

もっと一緒にいたかったが,長居するといつもは一人静かに暮らしている姉を疲れさせるだけだと思い,次の日の午後松山を離れることにした。神戸から松山まではロードスターでたった4時間,また近いうちに来ることもできるだろう。姉は一人暮らしとはいえ,娘のN子が近くに住んでいる。翌日の午前中,N子にコーヒー豆の焙煎の方法を教えてもらった。コーヒー好きの僕にとって至福の時間だった。

もとはといえば豆の試験用の小さい焙煎機

今日は,ブラジル,グアテマラ,コロンビアを少しずつ

だんだん色づき,パチパチという音がしだすと完成間近

焙煎終了

焙煎が終わったコーヒー豆をたくさんお土産にもらい,さらにはN子が作ったとても美味しいベーグルまでもらって,松山を後にした。すぐに神戸に帰るのはもったいないと,懐かしい宇和島まで足を伸ばし,足摺岬や四万十川を訪ねてみることにした。




2022年5月14日土曜日

沖縄のこと

僕が生まれたとき祖父は既に死んでいた。祖父は沖縄戦で戦死した。僕が小学生のころ,祖母は慰霊祭に参加するためか,何度か沖縄へ行っていたことを覚えている。当時はまだ沖縄は返還されておらず,祖母が父に免税店で上等のウイスキーやブランデーをお土産に買ってきて,父がとても喜んでいたことを覚えている。

息子は高校の修学旅行で沖縄を訪れ,戦没者慰霊塔で祖父(彼にとっては曽祖父になる)の名前を見つけたと話していた。このように意外と僕は沖縄と関わりが深い。母は何度か沖縄を訪れたようだが,僕だけが沖縄にいったことがなかったが,10年ほど前初めて沖縄を訪れた。中学と高校で数学をならった先生を訪ねた。先生には主として代数を習ったが,僕は代数はどちらかといえば苦手で,幾何の方が好きだったし得意だったように思う。

事実,その後の僕の仕事は,多少の代数は用いたが,論文の根幹に関するところはすべて幾何学的な考えを用いている。そんな大そうな話ではない。つまり図を描いて確かめることができる問題を取り扱った。その過程で論文とは直接の関係はない対称性や格子についても興味が出て,現在の趣味や道楽に繋がっている。

沖縄では多くの場所を観光することはできなかったし,戦没者慰霊塔も訪れなかった。短い旅程のなかで石垣島も訪れるという強行日程だった。しかしレンタカーを借りて移動する際,広大な基地を眼の当たりにし,さらには目の前の空を飛ぶオスプレイにも遭遇した。明日5月15日は沖縄本土復帰50周年だ。50年のうち,僕が沖縄を訪れて以降のいろいろな出来事を考えても,負担をすべて実質的に沖縄に押し付けたままだと感じることが多い。

森山良子の「さとうきび畑の唄」を聴きながら,木版画を作成した。海の色,空の色はうまく表せたと思うが,広いさとうきび畑のざわわ感はやはりうまく表せなかった。祖父のみた沖縄はこんなものではなかったのだろうと思う。篆刻は「風音」,つまり「ざわわ,ざわわ,ざわわ」。

ざわわ,ざわわ,ざわわ


2022年5月8日日曜日

母の日

今日は母の日だ。母は38年前に死んでもういないんだが,昨日近所のスーパーで,赤いカーネーションを一本買ってきた(198円)。空のワインボトルに投げ入れて飾り,それを版画にして見た。

赤いワインと赤い花

 題材がありふれているので,ちょっとだけいつもと違う工夫をしてみた。

  • 紙は和紙ではなく「ニューブレダン紙」という洋紙。表面に微妙な凹凸が付けてあり,さらに弾力性も強い。そのためザラザラ感が出て,作成前にイメージしていた雰囲気になった。
  • 花の部分は下絵で描いた隣り合う花弁が同じにならないように絵の具(スカーレット)の濃さをほんのちょっぴりだけ変化させて4回の重ね摺りをしている。まさに四色問題!
  • 難しかったのはワインボトル。左右対称にしたかったのだが,そして事実下絵は鏡映軸で二つ折りにして正確に左右対称にしたのだが如何せん僕の技術では下絵通りに彫ることができず,微調整を繰り返すうちに左右対称とは程遠いものになってしまった。木目があるので,彫刻刀で滑らかなカーブを掘るのはとても難しい。
いつも使っている因州和紙の葉書や,版画教室でいただく和紙とは違う雰囲気のザラザラ感が出た。物によって紙を変えるのも必要なんだな。

母の日は 赤い花より 赤い酒
母の日や ワインボトルに 花一輪



2022年5月3日火曜日

もう一つの鯉のぼり

昨年,ステンドグラス風の鯉のぼりの木版画を作ったが,どうしてもステンドグラスの光の透過感を出すことができなかった。ステンドグラスは色は濃いが透過感があるという不思議な特徴がある。色を濃くしたり枠の形を変えたりして,再挑戦してみたがやはり難しかった。それならいっそのこと,夜の鯉のぼりにしようと月まで加えてみたら,良し悪しは別にして,枠の形が風のような,波のような,夜空の月か,水面に映った月か,なんともシュールな鯉のぼりになった。降ろし忘れた鯉のぼりが夜空にハタハタと風に吹かれている後継はなんとも寒々しい。篆刻は「夜風」,押す位置に苦労した。しかし,まあこの版画は失敗作かな?毎回満足のいくものは出来なくて当然だ。


忘れられ 夜風のままに 鯉のぼり

はたはたと 鯉のぼり 人目なく

おろし忘れ 風に吹かれて 鯉のぼり 

二番目は 尾崎放哉の自由律俳句「咳を しても 一人」に刺激されている。通常の俳句の五七五律ではないが,自由律とは言いながら三三三という律を持っている。二番目のは五五五の率を持っているのだ。もう一つかな?

夜風に吹かれる鯉のぼりがテーマなんだが,ない知恵を絞って俳句(もどき)を考えていると,今この時期ボブ・ディラン(Bob Dylan)の風に吹かれて(Blowin' in the wind)をふと思い出した。

鯉のぼり

実は,僕には一回り違いの姉,つまり12歳年上の姉がいる。Y姉さんだ。正確には本当の姉ではないのだが,小学生の頃から僕は彼女が大好きで,ずっと姉だと思っていた。そのころY姉さんは四国の宇和島に住んでいた。そして毎年夏になると,僕の家を一人で訪ねてきて何日間か泊まっていった。夏になって,母が「いついつYちゃんが来る」と話すのを聞くと僕はとても楽しみで,わくわくしたのを思い出す。

小学校6年生の夏頃だったように思う。そのY姉さんを訪ねて祖母と二人で宇和島へ行った。僕にとって初めての長旅だった。今のように四国と本州の間に橋があるわけではなく,岡山の宇野で列車から連絡線(宇高連絡船)に乗り換えて高松に渡り,その先は予讃線で宇和島まで列車で行くという気の遠くなるほど長い旅だった。事実朝早く急行「瀬戸」にのって出発し,宇和島に到着したのは夕方だった。宇和島の人には失礼な言い方かもしれないが,当時の僕にとって地の果てまで行くような気持ちだった。 

Y姉さんはそのとき既にH兄さんと結婚していて小さな家に住んでいたが,そこへ僕たち二人が転がり込んだわけで,小さな家の人口密度は一度に二倍になった。ちょうど夏祭りの頃で,闘牛を見物したり,お祭りの最後には,神輿が海の中へ入っていったという記憶がある。奉天という中国の街の名前のついたお店で餃子を食べたり,もっと立派なお店でビフテキを食べたり全てが初めての経験だった。

宇和島でも地の果てに来たと思っていたのに,そこからさらにH兄さんの運転する車で四人,山を越え谷を越え,海辺を走り,高知県との県境に近い城辺という小さな町まで行くことになった。城辺には,もう一人お婆さんがいた。祖母とY姉さんは,とても長い間,それも一週間や一年という期間でなくもっともっと長い時間を経てその人と再会したようだった。詳しい経緯はよくわからない。

城辺の町への道路で,宿毛(すくも)という道路表示があったのを覚えている。そのころ,少年雑誌の漫画に「宿毛の〇〇」という忍者が登場し,僕はその宿毛の近くまで来ているんだ,と妙にわくわくしたのを覚えている。今となって地図を見ればまだずいぶん離れているが,僕は「四万十川」と聞けば,いつもその時の地の果てまでのドライブを思い出す。

明後日5月5日は子供の日だ。既に町のあちこちで鯉のぼりが目につくようになったが,鯉のぼりの木版画を作ることにした。コロナやウクライナという気の沈むことばかりの中,パーっと気持ちが晴れるような木版画を作りたくて,四万十川の「鯉のぼりの川渡し」をイメージしたものを作成した。ちょうど県立美術館で習ったばかりの「木目を生かす」手法で四万十川の波を表している。鯉のぼりの色も非現実的だが,プリズムの分光のとおりの虹の七色になっている。篆刻は「廻文(右上から反時計回りに読む)」で四万十川。

虹色鯉のぼり:四万十の川渡し


城辺からの復路は海沿いの道を走り,波の荒い海で泳いだり,「馬の淵温泉?」という温泉でお風呂に入ったり,この祖母との四国旅行は僕の大冒険だった。自分でも驚くほど,正確にすべてのことを覚えている。

Y姉さんは今松山に一人住んでいる。近くに娘のNがいるから安心だなのだが,少しコロナが収まれば会いに行こうかと考えている。実は四国には知り合いが何人かいる。ゼミの一期生(秀才揃い)のT君が高松に住んでいるし,同じく一期生の三人の女性のうちの一人は今治に住んでいるはずだ。少し前から音信が途絶えているのが少し心配だ。城辺には大学時代の同級生S君が住んでいるはずだ。そして高知には,大学のゼミの後輩のC君がいる。気候が良いうちに幌を開いて一人のんびりロードスターで四国を一周するのも良いだろう。

四万十に 鯉空泳ぎ 夏来たる

四万十の 空いっぱいの 鯉のぼり

四万十の 空を泳ぐや 鯉のぼり

ぼーっと生きていると危険だ!

トイレの手すりで頭をしこたま打った。手すりというか硬い金属製のハンガーのようなもの。尖った角で打ったため,少しだけだが血が出てきた。それもすぐに止まったから大丈夫だろうとたかを括っていたのだが,夜になると傷口がズキズキ痛むし,打った側の目や耳まで痛いような気がする。しかし,肩こり...