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2024年9月18日水曜日

ウイスキー

 高いウイスキーはキャンプに似合わない。安いウイスキーが良く似合う。

酒なくて何の己が桜かな

遠き山に日は落ちて

(大阪府能勢町:杜のテラスキャンプ場)

2023年3月31日金曜日

帽子のお話:新しい帽子

大恐慌でニューヨークの街に溢れる大量の失業者も,ホロコーストで着の身着のまま強制連行される人々も,それがハンチングであろうがフェルトの中折れ帽であろうが,皆帽子をかぶっている。人間は深刻な状況の極限にあっても,尚且つ装飾を気にかけるのだろうか,それとも帽子は決して装飾ではなく,背広や靴と同様,必要最低限の衣服なのだろうか。僕はおそらく後者なんだろうと思う。そう思ってから帽子は僕の必需品になった。特に髪の毛を短くしてからは冬は冷たい風,夏は直射日光を防ぐため帽子は離せない。

愛用の帽子は,衣替えで触れたボルサリーノの中折れ帽の他,夏用には同じくボルサリーノのパナマ帽とジュートの帽子がある。その他,ハンチング,キャスケット,ニット帽など,どれも被りすぎで「くたびれて」しまうまで使っている。それぞれに購入時のエピソードがあり懐かしいものばかりだ。(注)

ロードスターに乗るようになってからベースボールキャップ(👉こちら)をかぶるようになった。幌をオープンしたときに風に吹き飛ばされないよう,ニット帽あるいはベースボールキャップのように頭にきっちりとフィットすることが必要だからだ。ただどうもベースボールキャップだけは心から好きになれない。いかにも某国的(実際,某国の某前大統領の選挙集会などでは支持者だけでなく本人もかぶっているのを報道でよく見かける)な感じが強すぎて嫌なのだ。

冬はニット帽で問題ないが,夏にニット帽は頭が蒸れる。そこで見つけたのが写真のサファリハット。顎紐がついているので,風に吹き飛ばされないし,素材が薄く,通気口があるため頭が蒸れることもない。ちょいよれっとしているがそれもまた風合い。実は,帽子そのものより,帽子の前面にかかれたschöffelというロゴが懐かしくて思わず購入した。ウムラウトがあることからもわかるように,schöffel(ショッフェル)はドイツのブランドだ。

サファリハット

1998年の初夏,フランクフルト近郊に住むK夫妻とマッターホルンへ行った。マッターホルンはスイスとイタリアの境にあり,フランクフルトからはかなりの距離である。自動車で深夜出発し早朝ツエルマット(Zermatt)に到着するという強行スケデュール。強行スケデュールとは言っても運転するのはKさんで僕は後ろの座席で居眠りをしているだけ。国境のトンネルでは自動車ごと貨車に積み込まれるという珍しい体験までできた。

ドイツでの滞在目的はマールブルグ大学(👉こちら)での講義だったが,半年間外国語での講義を無事こなすことができるかどうかがとても心配で,滞在中に山に行くことなど想像もしていなかった。夏山のハイキングだから大層な装備は不要だが,簡単な装備をドイツで購入した。その時フランクフルトのスポーツショップで勧められたのが,schöffel(ショエッフェル)のジャケット。湿気を逃す軽い素材で,風避け,雨よけにもなる。

実は,購入後,少し窮屈な感じがあり直ぐにお店まで一つ大きなサイズと交換に行った。言葉も話せないのに,きちんと交換に行ったことをK夫妻に褒めてもらったことをよく覚えている(笑)。まあ「普通の人なら言葉もわからないのにそんなややこしいことをせずに少し小さく感じるぐらいなら辛抱するだろう」というわけだ。実際,身振り手振りで説明するのに大変苦労した。当初のブルー(まさにプルシアン・ブルー)が,大きいサイズではグリーンに変わったが,ヤッケは20年以上経った今でも健在だ。春先や秋口のハイキングには欠かせない。

マッターホルンをバックに:44歳の僕

マッターホルンはお天気にも恵まれ素晴らしかった。何よりも素敵な友人との二泊三日を心から楽しむことができた。このschöffel(ショエッフェル)の帽子は僕のお気に入りの一つになるだろう。

(注)ジュートの帽子は映画「ラマン」でジェーンマーチ(女性)がかぶっていたのがすごく印象的で夏用に購入した。やはりボルサリーノ。ジェーン・マーチのえんじ色のリボンと違って綺麗なブルーのリボンだがとても気に入り,長い間かぶっている間にだいぶ日に焼けた。実はボルサリーノとの出会いはハンチング。2002年フィレンツェのボルサリーノの店で購入した。僕は頭が大きいので(頭の大きさは問題ではない,中のミソが問題だ,というのは志ん生の落語の枕)フィットする帽子はないと思い込んでいた。ふと入ったボルサリーノのお店でそのことを冗談混じりで言うと,「ちょうど合うような良い帽子がある」と,お店の女主人が千鳥格子のしゃれたハンチングを出してきてくれた。かぶってみるとピッタリ。即購入という運びになった。帽子とお揃いの柄のマフラーもあり勧められたが,それはちょっとやりすぎかな?と帽子だけにしたのだが,やはり購入しておくべきだったと20年間後悔し続けている。そのハンチングも昨年,鍔のなかの型紙が割れてしまって被らなくなった。今はもっぱら,代わりに求めたグレーのハンチング(正確にはカスケットに近い)をかぶっている。これは映画「麦の穂を揺らす風」(👉こちら)でアイルランドのレジスタンスがかぶっている姿に触発されて愛用するようになった。とても良い映画だった。このように帽子だけでもそれぞれにさまざまなエピソードが詰まっている。



2023年3月19日日曜日

唐招提寺

和歌山までお墓参りに行った。いつものようにお昼は一橋庵という割烹でちょっとしたお寿司を食べて,駿河屋で羊羹を買って帰ろうと考えていたのだが,コロナ禍もだいぶ収まり活気が戻ってきたようで,どちらのお店も駐車スペースもないほどの賑わいだ。お寿司と羊羹は断念した。

帰り道,お天気も良いしこのまま神戸に戻るのも勿体無いと思い,奈良の唐招提寺に寄ってみた。奈良の街からは少し離れたところにある唐招提寺は人出もすくなくゆったりしたお寺でとても落ち着いた気分になる。

国宝 金堂

教科書で見慣れた鑑真和上像,本物は六月五,六,七日の三日だけ公開ということで「身代わり像」と称するレプリカが一般に公開されている。レプリカにもかかわらず,不思議なことにやはり撮影禁止。何らかの理由があるのだろうが詳細は不明。

唐招提寺を出る時に,ふと「二人展」を機に連絡をとったT先生がこの近くに住んでおられることを思い出した。スマホの連絡帳にその住所を見つけ,訪ねてみることにした。50歳代で民間企業から留学生担当社会人教官としてK大学に移って来られたT先生,今年は87歳になられるとのこと。このような時期に加え突然の訪問だったので,玄関先だけで失礼したが,本当に久方ぶりにお目にかかった先生は,昔と変わらずお元気そうで安心し,とても幸せな気持ちになって帰路についた。

今日も良い日だった。めずらしく墓参りなどと良いことをすると,付随してさらに良いことも起こるものだ。


2022年10月29日土曜日

僕の「奥の細道」(VI)2022年10月29日

昨日金沢に到着した。今日は今回の一人旅の最終日。あとは神戸まで帰るだけだ。昨日の走行距離は290キロとそんなに多いわけではない。しかし旅も6日目になると疲れが出たのか金沢に到着後,ホテルですぐに居眠りしてしまい,街を散策することができなかった。朝早く目が覚め,美味しい朝食を済ませた後,ぶらりと町の散策にでかけた。まずは徒歩で15分にある東茶屋街。とても風情のある街で,さらに早朝のため,地元の人以外の観光客もおらず,居心地がすこぶるよい。金沢も今回どうしても訪れたかった町だ。

学生時代からお世話になったF先生は金沢の出身だ。厳しい先生であったが,定年後もよく僕の研究室を訪ねてくれ,夏と冬には金沢のお菓子を送ってくださる優しい先生だった。まさに「仰げば尊し,和菓子の恩」である。

指導教官だった経営統計論のM教授と証券市場論のF教授,それともう一人経営数学のI教授はすべて同じゼミナールの出身という繋がりがあり,ずっと親しくされていた。F先生は2020年,「二人展」の相方Dさんが亡くなった三ヶ月後に亡くなった。僕は直接論文の指導を受けたわけではないが,研究者としてずっとお手本としてきた先生である。

東茶屋街にそのお菓子屋や,ホテルから東茶屋街への途中にはときどき先生がくださった飴の飴屋もあった。早朝で,まだ開いていなかったが,とても風情のあるお店だった。茶屋街は格子や石畳など風情あるとても居心地の良いところだった。

老舗のお菓子屋

東茶屋街の街並み


浅野川

老舗の飴屋

当初は,奥の細道結びの地である岐阜県の大垣市に立ち寄って帰る予定だったが金沢がすばらしく,もう少し午前中金沢を散策することにした。とても素晴らしい街でとても半日では足らない。いくつか見所は回ったが日を改めてまた金沢を訪れるつもりだ。

西茶屋街の街並み

西茶屋街の街並み

犀川

犀川の畔に,芭蕉の句碑を見つける。

あかあかと
日は難面も
あきの風

  芭蕉
予定通り大垣に立ち寄る時間は残っていたが,金沢のあまりの素晴らしさに「もうこれで十分」と考えこの地を今回の一人旅の結びの地とした。日光や那須,高速で素通りした敦賀など今回行けなかったところは日を改めて行こうと思う。お昼過ぎ金沢を出発,昔山登りに行く時によく使った北陸自動車道を経由して,息子家族の住む京都へ立ち寄り,少しばかりのお土産を渡し,孫と将棋を一局。夜無事神戸に到着。僕の「奥の細道」は終了した。今日の走行距離は364キロ。7日間で合計2,412キロ走行したことになる。

今回のロードスターでの一人旅,旅の見どころをポイント,ポイントで楽しむというよりは,移動の間,車の窓からのみる景色の連続がとても素敵だった。これは車での旅でしか味わえない。特に山形の山道,のどかな庄内平野,月山や鳥海山の眺めなど素晴らしいものだった。



2022年10月24日月曜日

僕の「奥の細道」(I)2022年10月24日

10月24日月曜日のお昼少し前に福島県の白河の関に到着した。ロードスターで巡る僕の「奥の細道」の出発点だ。芭蕉の「奥の細道」の起点は東京(江戸)で長い時間をかけて弟子の曾良と二人徒歩で巡るものだから,自動車で正確に彼らの道を辿れば,立ち寄るところが自ずと異なってくる。たとえば,「二,旅立ち」のあと,白河の関が出現するのは,草加,日光などを経て十一番目だ。「白川の関にかかりて旅心定まりぬ」と記されていることなどを考え,僕の「奥の細道」の起点は白河の関とすることにした。

起点とは言うものの,神戸からは800キロ程離れている。実は出発したのは前日の10月23日。軽井沢の旅館で一泊し,翌日に起点にようやく到着したわけである。それでも,軽井沢まで自宅から約500キロ以上,かなりの距離である。しかし毎夏のように利用する中央自動車道は勝手知ったる道なので安心して運転できる。事実,何度も訪れた梓川SAから順調にいけば1時間程で目的地の碓氷軽井沢ICに到着する。軽井沢で泊まったのは,老舗旅館。長丁場の後なのでどうしても大きな温泉がある旅館に泊まりたかった。

荷物はこれ一つ。入っているのは衣料だけ。

駐車スペースもちゃんと確保されていた!

泊まったのは,何やら有名な小説家も泊まったという老舗旅館。少し高いが10月11日から始まった「全国旅行支援」制度のおかげで5000円割引,その上3000円のお買い物クーポン付き。軽井沢は通過地点に過ぎず,夕方「ガッチリ買いましょう」スタイルでりんごバタージャムをふたつ購入。残りは軽い夕食代。運転疲れで食欲なし。

翌日早朝チェックアウトし,関越道,北関東道を経由し,ひたすら東北自動車道を北上,昼前山奥の白河関跡に到着した。今は小さな碑とその奥に神社があるだけ。人も少なく曇り空のもと,ひっそりと碑が立っていた。しかし,いざここから僕の「奥の細道」が始まると思うと,身が引き締まる。まさに「白川の関にかかりて旅心定まりぬ」だ。

白河関跡の碑

実は芭蕉は白河の関では俳句を残していない。しかし旅に同行した曾良が素敵な俳句を残している。

卯の花を
かざしに関の
晴れ着かな

    曾良

再び東北自動車道に戻り,SAで軽く昼食。このまま北上すれば今日の目的地松島まであと一息だ。郡山に差し掛かろうとしたとき,常磐道という標識が目についた。神戸からはるばるこの地まで来て,楢葉,大熊,浪江,相馬という場所を通らず東北道を北上して良いものだろうかという考えが頭をよぎった。通り過ぎるだけには違いないが,このまま北上するのではなく,いわき市へ進路をとり常磐道を北上することが今の僕が示せる最低限の誠意ではないかと考えた。本当に通り過ぎるだけなのだが。

急遽磐越道へ進路をとる。まさに「北北東へ進路をとれ!」磐越道経由でいわきJCTから常磐道に入る。高速道路沿いには何キロかごとに放射線の線量計。通常ならば「現在の気温〇〇°」と書かれている電光掲示板には「〇〇シーベルト/時」という表示が。数値のレベルが人体に対してどのような影響を与えるものかは僕にはわからない。しかし原子力発電所の事故はまだ終わっていないし,これから何万年も続くのだ。そのことに対して僕たちは何ができるのかなどを考えながら常磐道を北上した。最後に「相馬SA」で休憩。そこにはやはり常磐道沿いの各地点の放射線量が示されていた。

放射線量の掲示(相馬SA)

職場では僕は明らかに「原発反対派」だったし,経済学入門の講義で,経済理論の文脈のなかでその立場を明らかにしたこともある。職場には「原発反対」の立場の発言をあからさまに批判する人もいたが,いまでもその立場は変わらない。

常磐道
秋の日差しに
線量計

   一郎

そんなことを思い出したり考えたりしているうちに松島に到着。まだ陽は高かったのでひとまず瑞巌寺を訪れた。

瑞巌寺本堂前

ここ瑞巌寺と,これから訪れる予定の平泉の中尊寺,毛越寺,山寺の立石寺すべて参拝することを「四寺廻廊」というらしい。何やら,全てのお寺のスタンプ(御朱印と書かれていた)をそれ専用のノートに押すと,最後のお寺で住職のサイン入りの色紙がもらえるとのこと。しかし「四寺廻廊」の記録については旅が終わったあと,記念に自分で作成することにした。実際に「四寺廻廊」を回ればきっとその時の印象をもとに良いものができそうだ。



2022年5月21日土曜日

姉を訪ねて三千里(その四)

 腹ごしらえも終わり,いよいよ最終行程。四万十川の川幅は狭くなるが,いくつかの沈下橋を眼下に見ながら381号線を四万十町へ向かう。

やっぱり沈下橋

川幅が狭くなると急流が目立つ

とうとう四万十川から離れた。実は「いの町」には大学のゼミの後輩のC君が住んでいる。地元で家業を継ぎ,いまは大きな製紙会社の社長。ただし伝統的な和紙産業ではなく,衛生,介護用品を製造販売する総合的な製紙会社に発展させたということだ。連絡を取ったが,突然のことだったので彼は現在鹿児島に出張中。

日も暮れるころ明石大橋に到着。神戸は目前。今回の小旅行もいよいよ終わり。当初の目的はほとんど達成。動き回れる時に,これからも愛車でいろんなところへ行ってみよう。

夕暮れの明石大橋






姉を訪ねて三千里(その三)

朝起きると本日も快晴。今日はいよいよ日本最後の清流,四万十川をめぐるドライブだ。中村駅の観光案内所で四万十の簡易地図をもらい見所を教えてもらう。さっそく四万十川沿いに国道441号線を遡るドライブに出発した。四万十川の見どころは澄んだ流れはもちろんだが,沈下橋という都会では見ることの出来ない橋にある。洪水時に橋が流されないように欄干が無く増水すれば橋は水面下に隠れてしまう。まず最初に出会うのは佐田沈下橋。河原まで降りると屋形船が浮かんでいるが誰も人はいない。流石に水は澄んでいて綺麗。

人影は少ないが二人連れが橋を渡っている。歩いてみると幅は十分あるのだが欄干がないためなんと無く気持ちが不安定だ。まったく車は走っておらず,果たして車で通行して良いのかどうかがわからない。

佐田沈下橋

佐田沈下橋を過ぎればすぐに三里沈下橋に到着する。少し川幅が狭くなり水もより一層綺麗になった気がする。ここでもやはり人影は無かった。

三里沈下橋

次に高瀬沈下橋に向かう。441号線は国道とはいうものの道幅はすれ違うのがやっとというほど狭くやたらと工事中区間が多い。緑の中の川沿いのワインディングロードをオープンエアーで走行するのはなんとも気持ちが良い。高瀬沈下橋に到着。なんとここでスイスイと橋を渡る軽四輪トラックに遭遇。車で渡ることができるんだ!

高瀬沈下橋

橋を渡る軽四輪トラック

渡ってみようと思ったが,やはりなんと無く不安がつきまとう。つまり,

  • もし橋の途中で対向車に出会ったらどうするんだろう。相手が後退してくれると良いが,後退しろと言われた時,真っ直ぐに後退する自信がない。しかし後退できないというのはプライドが許さない。愛車はもちろんバックモニターもついていない。
  • 万が一脱輪して転落しても死ぬことはないだろう。しかし僕が乗っているのはやたら目立つ自動車だ。つまり6速マニュアルトランスミッションのオープンカー,スポーツカーなのだ。こういう車でオートマチック車に乗るのはなんともみっともないと思う。
  • そんな自負のある僕が脱輪して転落すれば,目立つことこの上なく,恥ずかしい。「高齢者,スポーツカーで脱輪し沈下橋から転落。車は大破したが幸い本人に怪我はなし」という新聞記事が目に浮かぶ。

というわけで今回は徒歩で楽しむことに決定!徒歩でも欄干がないためなんとなく気持ちが落ち着かない。そうこうしているうちに,勝間沈下橋に到着。河原まで降りて行くことができた。橋の上には人影が。この橋が一番趣のある沈下橋だったように思う。

勝間沈下橋

最後は岩間沈下橋。駐車場で観光タクシーに出会い。橋の途中で対向車と出会えばどうするのか尋ねてみた。既に橋を渡っている車があれば橋の袂でそれが渡り終えるのを待つというのがルール。橋の上は前進あるのみとのこと。しかし地元の人はルールを知っているが来訪者はそれを知らない。事実僕は知らなかったし,そういうもの同士が鉢合わせすることもあるだろう。まあ今回はやめておこう。

岩間沈下橋

実は岩間沈下橋の前に口屋内沈下橋というのがあったのだが,途中道路工事区間があったりして,うっかり見過ごしてしまったようだ。迂回路を通ればあったのかもしれないが,,,。お昼前に道の駅よって西土佐に到着。案内所でおしえてもらった鮎のお店に直行。鮎の身がこんなに多いとはいままで知らなかった。小骨の間から身を削ぐようにして食べるのが鮎だと思っていたが,四万十の鮎は背中からガブリ。ゴロリと身がとれるという感じ。美味かった〜。

鮎の塩焼き











2022年5月20日金曜日

姉を訪ねて三千里(その二)

お昼過ぎ,松山を出発し,宇和島を通り海岸沿いを一路四万十へ。今日の目的地は足摺岬。海岸の道路沿いには穏やかな海が広がる。幌全開でとても気持ちが良い。途中何人ものお遍路さんに出会った。そうだ,四国はお遍路さんの島なんだ。

海岸の道路沿いの穏やかな海

御荘,城辺,宿毛といった懐かしい場所を通り,四万十市に着いたのは6時を過ぎていた。そして念願の足摺岬に到着したのは空が赤く染まる直前だった。断崖にひっそりとたつ白い灯台は,緑色の光を放ち,独特の雰囲気がある。ここが四国の最南端だ。あたりにはもう誰もいなかった。田宮虎彦の『足摺岬』にとうとう来たのだと感慨深い。

余談だが,木版画の「スリ」は「刷り」ではなく「摺り」と表記する。木版画を習い始めた頃,なんかあまり普段は使わない漢字をわざわざ使うことにペダンチックな感じがして,違和感があった。事実,僕はこの「摺」という漢字を日常生活でこれまで使ったことが無い。しかし,足摺岬の「摺」はまさに,木版画の「摺」だということに足摺岬の道路標識を見て今頃気がついた。

断崖絶壁の灯台

緑の光を放つ灯台

夜8時過ぎホテルに到着。一人でホテルに泊まるのは何年ぶりだろう。定年の直前に,共同研究の最終仕上げのためオランダとイタリアへ出張した時に泊まって以来だから,実に三年ぶりの一人旅だ。実は僕の仕事は定年前と定年後で大きな違いははい。定年前も週に何度かの講義以外は時間的な制約はほとんどなく,毎日職場には通ったが何時までにというようなこともなく,用意ができたら職場に向かい,仕事が自分なりにひと段落したら帰宅するという毎日だったから定年後の今もそんなに変わらない。

そんなことを考えながら,ふと定年前と定年後の大きな違いに気がついた。25歳で助手に採用されてから39年間ずっと,自宅の部屋以外で自分一人だけで過ごすことができる「研究室」というものがあったのが無くなってしまったことだった。自宅に部屋はあるものの,独立感が全然違う。不謹慎ではあるが,研究室は研究をする場所だけではなく,誰にも邪魔されずに生きることができる僕の精神の駆け込み寺だった。一人旅でのホテルの一室はその「精神の駆け込み寺」を思い出させてくれる。

研究者生活の最後を過ごした研究室


海外のホテルほどはゆったりした部屋ではないが,四万十で泊まったホテルには共同の大浴場があった。幌を全開にしたオープンエアーのドライブは爽快だが,実は排気ガスのせいか顔がすごく汚れることはあまり知られていない。大浴場でゆっくり体をほぐし,横になるとそのまま眠ってしまった。


姉を訪ねて三千里(その一)

ふと姉に会いたくなり,10年ぶりに姉を訪ねた。突然電話をして突然訪ねた。義理の兄が死んでから,Y姉さんは松山に一人で住んでいる。本当は,どんなに年老いてしまったかとても不安だった。しかし,昔のままと言えば言い過ぎだが,大好きだったやさしく綺麗な姉とほとんど変わってなく,とても嬉しかった。あっというまに夜中になってしまうほど話し込んでしまった。

炎天に 姉を訪ねて 三千里 

夏の午後 十年ぶりの 姉の声

炎昼に 手を振る姉を みつけたり

もっと一緒にいたかったが,長居するといつもは一人静かに暮らしている姉を疲れさせるだけだと思い,次の日の午後松山を離れることにした。神戸から松山まではロードスターでたった4時間,また近いうちに来ることもできるだろう。姉は一人暮らしとはいえ,娘のN子が近くに住んでいる。翌日の午前中,N子にコーヒー豆の焙煎の方法を教えてもらった。コーヒー好きの僕にとって至福の時間だった。

もとはといえば豆の試験用の小さい焙煎機

今日は,ブラジル,グアテマラ,コロンビアを少しずつ

だんだん色づき,パチパチという音がしだすと完成間近

焙煎終了

焙煎が終わったコーヒー豆をたくさんお土産にもらい,さらにはN子が作ったとても美味しいベーグルまでもらって,松山を後にした。すぐに神戸に帰るのはもったいないと,懐かしい宇和島まで足を伸ばし,足摺岬や四万十川を訪ねてみることにした。




2022年5月3日火曜日

鯉のぼり

実は,僕には一回り違いの姉,つまり12歳年上の姉がいる。Y姉さんだ。正確には本当の姉ではないのだが,小学生の頃から僕は彼女が大好きで,ずっと姉だと思っていた。そのころY姉さんは四国の宇和島に住んでいた。そして毎年夏になると,僕の家を一人で訪ねてきて何日間か泊まっていった。夏になって,母が「いついつYちゃんが来る」と話すのを聞くと僕はとても楽しみで,わくわくしたのを思い出す。

小学校6年生の夏頃だったように思う。そのY姉さんを訪ねて祖母と二人で宇和島へ行った。僕にとって初めての長旅だった。今のように四国と本州の間に橋があるわけではなく,岡山の宇野で列車から連絡線(宇高連絡船)に乗り換えて高松に渡り,その先は予讃線で宇和島まで列車で行くという気の遠くなるほど長い旅だった。事実朝早く急行「瀬戸」にのって出発し,宇和島に到着したのは夕方だった。宇和島の人には失礼な言い方かもしれないが,当時の僕にとって地の果てまで行くような気持ちだった。 

Y姉さんはそのとき既にH兄さんと結婚していて小さな家に住んでいたが,そこへ僕たち二人が転がり込んだわけで,小さな家の人口密度は一度に二倍になった。ちょうど夏祭りの頃で,闘牛を見物したり,お祭りの最後には,神輿が海の中へ入っていったという記憶がある。奉天という中国の街の名前のついたお店で餃子を食べたり,もっと立派なお店でビフテキを食べたり全てが初めての経験だった。

宇和島でも地の果てに来たと思っていたのに,そこからさらにH兄さんの運転する車で四人,山を越え谷を越え,海辺を走り,高知県との県境に近い城辺という小さな町まで行くことになった。城辺には,もう一人お婆さんがいた。祖母とY姉さんは,とても長い間,それも一週間や一年という期間でなくもっともっと長い時間を経てその人と再会したようだった。詳しい経緯はよくわからない。

城辺の町への道路で,宿毛(すくも)という道路表示があったのを覚えている。そのころ,少年雑誌の漫画に「宿毛の〇〇」という忍者が登場し,僕はその宿毛の近くまで来ているんだ,と妙にわくわくしたのを覚えている。今となって地図を見ればまだずいぶん離れているが,僕は「四万十川」と聞けば,いつもその時の地の果てまでのドライブを思い出す。

明後日5月5日は子供の日だ。既に町のあちこちで鯉のぼりが目につくようになったが,鯉のぼりの木版画を作ることにした。コロナやウクライナという気の沈むことばかりの中,パーっと気持ちが晴れるような木版画を作りたくて,四万十川の「鯉のぼりの川渡し」をイメージしたものを作成した。ちょうど県立美術館で習ったばかりの「木目を生かす」手法で四万十川の波を表している。鯉のぼりの色も非現実的だが,プリズムの分光のとおりの虹の七色になっている。篆刻は「廻文(右上から反時計回りに読む)」で四万十川。

虹色鯉のぼり:四万十の川渡し


城辺からの復路は海沿いの道を走り,波の荒い海で泳いだり,「馬の淵温泉?」という温泉でお風呂に入ったり,この祖母との四国旅行は僕の大冒険だった。自分でも驚くほど,正確にすべてのことを覚えている。

Y姉さんは今松山に一人住んでいる。近くに娘のNがいるから安心だなのだが,少しコロナが収まれば会いに行こうかと考えている。実は四国には知り合いが何人かいる。ゼミの一期生(秀才揃い)のT君が高松に住んでいるし,同じく一期生の三人の女性のうちの一人は今治に住んでいるはずだ。少し前から音信が途絶えているのが少し心配だ。城辺には大学時代の同級生S君が住んでいるはずだ。そして高知には,大学のゼミの後輩のC君がいる。気候が良いうちに幌を開いて一人のんびりロードスターで四国を一周するのも良いだろう。

四万十に 鯉空泳ぎ 夏来たる

四万十の 空いっぱいの 鯉のぼり

四万十の 空を泳ぐや 鯉のぼり

2021年12月16日木曜日

英語の俳句・木版画・篆刻・二人展:帰り道

Dさんのことを「Dさん」と呼ぶようになったのはいつ頃だっただろう。Dさんは学部も大学院も僕の3学年先輩だが,最初の出会いは,僕が大学院・修士課程1年生の時だった。その時Dさんは既に大学の助手であり,学生の僕は「D先生」と呼んでいたと思う。事実,修士論文の作成に必要な数学的な方法をDさんに指導してもらった記憶がある。その後,Dさんは別の大学に異動し,僕も別の大学の助手に採用され,独立に研究者の道を進んでいた。

それが再び同じ大学に勤めることとなり,いつの間にか気軽に「Dさん」と呼べる間柄になった。気軽といっても,一方的に先輩のDさんに助けてもらうばかりだったという点では,以前と変わりはない。物静かで思慮深いDさんと,おしゃべりで慌て者の僕が,親しいと知り驚く人が多かったが,どこか根底で通じることろがあったのだろう。

Dさんはアメリカの大学院で博士号をとった。別の大学に勤めていたもう一人の畏友O君もそうだ。僕はもちろん国産の博士号しか持っていないが,こういう友人達にずっと囲まれていたこと,そして学生時代に指導を受けた先生がそうであったことから,国際的な場で研究をしなければならないという強迫観念があった。もしこのような先生や友人がいなければ,もっと気楽に研究者生活を送ることが出来ただろう。

外国,特にアメリカで教育を受けたことがない僕が,国際的な場で研究活動をすることがどんなに大変なことかということをDさんはよくわかっていてくれたんだと思う。苦手な英語で編集者や査読者とのやり取りを経て,やっと論文の掲載が決まった時,その過程を見守ってくれていたDさんは自分のことのように喜んでくれて「Tさん,よく頑張ったねえ。」と,時にはご馳走までして労ってくれた。

実は,「クルルのおじさん(→こちら)」に書いてあるように,Dさんはもういない。二人展はDさんとの最後の約束だった。二人展が終わり,準備から撤収まで献身的に手伝ってくれた二人に共通の知人Sさんを,帰り道にあるご自宅まで送った後,一人車で有馬街道を家まで帰った。自分でも「よくやり切った」と感慨深く,やはりDさんが「Tさん,よく頑張ったねえ。ありがとう」と言ってくれているようだった。ちょうど有馬街道のトンネルを出ようとしていた。

この一年半,Dさんはいつも僕の斜め後ろにいるような気がしていた。それがトンネルから出た時,Dさんがその言葉とともにスーッと,異なる次元の世界へいってしまったような気がして,感情が溢れ出てしまった。いい先輩だった。






2021年11月30日火曜日

英語の俳句・木版画・篆刻・二人展:第1日

いよいよ本日から始まる。すごく良いお天気だ。早めにきて早速ポスターをギャラリーの外へ。こうしてみるとおしゃれなギャラリーだ。幌を開いたロードスターがよく似合う。

ロードスターが似合うおしゃれなギャラリー

あとは訪問者を待つだけ

昨日Mさんが持ってきてくれたお花を入り口に

最初の訪問者は名誉教授のO先生。二人展は12時から6時までなんだが,なんと先生は10時に来られてびっくり。聞くと,本日午後から病院へ,そのため12月5日まで来られないから,来られるうちに来たとのこと。そんなにまでして,こんな拙い作品展を見にきてくれるとは感激。いい先生だなあ。

Dさんのお嬢さんたちからのお花

続いて友人のT君がわざわざ姫路から来てくれた。T君は中学から高校,学部は違ったが大学・大学院まで同じ学校だった。温厚で謹厳実直なT君も今年定年退職をしたとのこと。なんか長い年月がたったんだなあ。中学・高校の友人には3人(温厚・誠実という言葉がぴったりの学究肌で今は地質調査の専門家T君,中高時代の親友N君は今某市の医師会長)に連絡したのだが,みなもわざわざ遠路きてくれて感激。

皆さん,通り過ぎるだけでなくゆっくり見てくださる。



そうするうちに,昨日お花を贈ってくれた版画のお友達が。お昼過ぎ,遠路東京からY先生,H先生がお花を持って来てくれたり,このブログに登場したこともある元同僚のK君がぶらりと寄ってくれたり。たくさんの豪華なお花も届いた。版画教室の友人4名の女性,8名の女子学生,二人姉妹から,設営を手伝ってくれた版画教室のMさんなどほとんど女性だが,唯一の男性,ゼミの卒業生のHさんからも立派なお花が届く。僕はまったくウダツの上がらない大学教授だったが,ゼミの卒業生のHさんは,今や,大阪のとある大学の経営学部長。すごい!! 

Y先生からの素敵なお花

Hさんからの素敵なお花

今日は,京都から名誉教授のY先生,同じく名誉教授で信頼する先輩のNさんとも久しぶりに再会。大学院の後輩,Hさんは,ちょっと素敵なマスクを差し入れに持ってきてくれた。Hさんは本当に頼りにしている後輩だ。若い時に資料室の助手をされていて研究を助けていただいたSさん(旧姓Nさん)もお母さんと一緒に来てくれ,今日は,まるで昔にタイムスリップしたような気持ちだった。

無事終了。お土産に作った栞も減った。


今日は総勢30人以上の人が来てくださった。明日もまたたくさんの人が来てくれるのだろうか?楽しみでもあるし,ちゃんと応対できるだろうかと不安だなあ。

 





2021年7月9日金曜日

茅の輪くぐり

コロナ禍での自粛生活が始まったころから,週に一度気晴らしにロードスターの幌を全開で,「淡河(おうご)」にある,天然酵母のパン屋さんと,和菓子屋さんまで山越えのドライブをすることにしている。真冬でも幌はオープンで行くのだが,シートヒーターをつけて窓を閉めておけば意外と冷たい風の巻き込みは少なく,頭寒足熱,ちょうど露天風呂に入っているような気持ちの良さだ。もちろん春になってからの新緑のシーズンは風が爽やかでもっと気持ちが良い。

今日も朝9時ごろから出かけたが,帰り道に和菓子屋さんで聞いた淡河八幡神社の「茅の輪くぐり」を見に行ってきた。定められた順番で,茅の輪をくぐって本殿に参拝し無病息災を願うということだ。

今日は生憎の雨が降りそうなお天気だったが,ひっそりとした神社にロードスターは意外にもよく似合っている。70歳までは運転を続けるつもりだ。愛車はもちろん6速マニュアル,AT車とちがって暴走の危険は少ない。クラッチをゆっくり繋げてそろりとでないと発進しない。失敗すれば暴走する前にエンストする。これは前進でも後退でも同じこと。高齢者はマニュアルシフトに限る。

茅の輪と鳥居とロードスター


2021年3月31日水曜日

小野桜づつみ回廊

 今日で,定年退職後ちょうど2年になる。定年退職後は「教育(きょういく)」と「教養(きょうよう)」が無くなるとよく言われる。つまり「今日行く(きょういく)」所がない,「今日用(きょうよう)」がないのだ。特に今年度(もう年度という時間の区切りは僕にはあまり重要ではないんだが)はコロナ禍のため,週に一度の山奥のパン屋さんと和菓子屋さんへの買い出し以外,外出することもほとんどない。

今日は,そのついでに思い立って「小野桜づつみ回廊」というところまで車で桜を見にいってきた。自宅から車で1時間ほどのところにある。昨日までの黄砂もなくなり絶好のドライブ日和。

「小野桜づつみ回廊」はK大の研究助成助手だったIさんに昨年初めて教えてもらった。なにぶん交通不便な田舎で平日だったためか,見ての通り(写真)人出も多くなく,何よりも加古川の堤防の上という風通しのよい所にあるため,いわゆる三密とは無縁である。写真は水面に映る逆さ桜だが,少し風があり漣がたっていたためはっきりとは映らなかった。

小野まで行ってふと中学・高校の同級生のF君のことを思い出した。結構遠いところから通ってきていたんだ。一度連絡してみようかなという気持ちになった。

2021年2月25日木曜日

淡路島 灘黒岩水仙郷

思い立って淡路島の黒岩水仙郷まで行ってきました。多少肌寒いが絶好のドライブ日和,海岸線のオープン走行を楽しみました。水仙郷は本日で閉園,来年も全面改修のため一年中閉園とのことで,ちょうど良いタイミングでした。水仙はそろそろ終わりかけていましたが,そのかわり,菜の花が光る海をバックにとても美しく,春がすぐそこまで来ていることを実感しました。


Olympus e410 Nikkor 28mm F2.8 (f4 1/3200)


Olympus e410 Nikkor 28mm F2.8 (f4 1/4000) 


Olympus e410 Nikkor 28mm F2.8 (f8 1/320) 


(注記)オリンパスは撮像素子が four-thirds のため28mmの広角レンズは56mmほぼ標準レンズに相当。

処暑:二十四節気

明日8月23日は処暑。まだまだ暑い日が続くが,時折秋の気配を感じることが多くなった。 小学生の頃住んだ家の裏隣には小さなお地蔵さんがあった。お地蔵さんは小さな建物のなかに祀られていたため,直接それを見たことはないが,おそらくこのような感じだったんだろう。お地蔵さんは地域の人々によ...