2021年1月30日土曜日

Cool heads but warm hearts

定年退職後,特に外出自粛要請のもとでは自宅でテレビを見ながら昼食をとることが多い。ワイドショーなるものも,自宅で昼食をとるようになり,はじめて観るようになった。毎日自動車で自宅と大学の研究室の間を往復するだけで,世の中の出来事は新聞を通してしか知らなかった僕にも遅ればせながら,少しずつ社会性が身についている。

ワイドショーを観るようになって驚いたのは,社会問題に関するレギュラーコメンテータは,ほとんど例外なく〇〇大学教授という肩書きに元〇〇新聞社編集局長,元〇〇通信△△支局長と併記されていることだ。事実,友人の一人もテレビ局の記者を経て,定年後に大学教授になっている。

良い悪いは別にして,そして決して彼らを否定するわけではないのに,これらの人々は僕がイメージする大学教授,つまり大学教授≡(イコール)学者とは随分違っているような違和感があった。ちなみに,愛用する三省堂の『新明解国語辞典』では,「学者」とは,
1)普通の人より知識の深い人。例文として「なかなかの学者だ」
2)実利を離れ,学問研究に従事している人
と列挙されている。1)の意味ではなるほどコメンテータの人たちも学者には相違ない。つまり先出の恒等式,大学教授学者は文句なく成立している。しかし例文からもわかるように1)の意味よりも2)の意味の方が,この恒等式の意味での「学者」と言えるだろう。つまり「なかなかの役者だ」という場合は,本物の役者を指して言うわけではないように,1)は本来の学者という意味ではない。では,2)の意味で,ワイドショーのコメンテーターの方々は,学者なのだろうか。彼(彼女)らは,少なくとも僕から見て,実利を離れているようには見えない。そこで,それでは学問とは何かを再び,この辞書で調べてみた。それによれば,
1)(学校で)今まで知らなかった知識を教わり覚えること
2)基礎から積み重ねられた,体系的な専門知識

 である。1)の意味では,まさに学生にとって今まで知らなかった様々な知識を与えているから,コメンテータの方々は学者に相違ないが,2)については,テレビを観る(聴く)だけでは,彼(彼女)らのそれが2)に基づいているのか否かは僕には判断ができない。つまり,この説明だけではやはり自分の違和感の説明はつかない。

項目「学問」の派生項目「学問的」に面白い記述があった。それによると「学問的」とは

〔常識的・政治的判断や,経験に基づいた判断などによるのではなく〕学理的な方法による(水準に達している)様子

である。なるほど,僕がいつも感じている違和感はこれが原因だったんだ。つまりテレビで話している彼らの意見は,僕が聴く限り,学理的な方法によるものかどうかは別にして,まさに彼らの豊かな社会「経験」と高度な「政治的判断」に基づく,かつ万人がなるほどと納得する「常識的」なものなのだ。僕は大学という狭い社会以外の経験は全くないし,政治的判断は一番の苦手で,常識はずれで浮世離れしている。だから,同じ職業でありながら,その正反対の人たちの話すことに違和感を感じたのだろう。

このような風潮はテレビのワイドショーだけではない。僕が勤めていた大学でも,すべてに常識的で,大学以外で豊かな経験があり,政治家顔負けの政治的判断に長け,常に実利を考えているる人たちが多かった。大学自体もそのような人を求めていたのか,そのような人たちは強いリーダーシップを持ち大学で中心的役割を果たしていたし,学生にも「社会役立つことを教えてくれる先生」と人気があった。

University of Groningen, The Netherlands

『新明解国語辞典』に,大学は「社会の第一線に立つべき人を養成する学校」とあるように,「実利を離れ,学問研究に従事している」だけではだめで,一義的にはそのような人を養成する学校でなければならない。しかし,実学と称して「社会役立つこと」教えるだけでは不十分だと思う。やはり実利を離れ,常識的・政治的判断や,経験に基づいた判断などによらない学理を教え,いずれ「社会役立つことを考えることができる人」を社会に送り出すことがより重要だと思う。

イギリスの大経済学者マーシャル(Alfred Marshall, 1842-1924)がケンブリッジ大学の教授就任記念講演の中で

It will be my most cherished ambition, my highest endeavour to do what with my poor ability and my limited strength I may, to increase the numbers of those whom Cambridge, the great mother of strong men, sends out into the world with cool heads but warm hearts, …

と述べている。「冷静な頭脳と暖かい心」という有名な言葉だが,これは決して大学における経済学研究の心構えを直接的に述べたものではない。頭脳(head)や心(heart)が単数ではなく複数になっているように,マーシャルは「冷静な頭脳と暖かい心」を持った多くの学生を社会に送り出すという研究や教育の意義や大学の使命を間接的に述べているのである。

文脈は少し違うが,先に述べたことは,このマーシャルの言葉に通ずるものがある。つまり大学での研究や教育の内容が直接「今,社会に役立つ」ことかどうかよりも,教育や研究が,「いずれ将来,社会に役立つことを考えることができる学生を育てる」に十分であるかどうかの方がずっと重要だと思う。

以上,かつて「絶滅危惧種」であり,そして絶滅した「社会の役に立たない」元大学教授の言い訳と独り言。

(注記)版画は,オランダ・フローニンゲン大学の本館。書道用の硯の裏側に彫った石版画である。何年か前に創立400年を祝った伝統のある大学。この大学に勤める畏友Elmer Sterkenとの共同研究のため何度も訪問した。彼が学長(Rector)となった記念に作成しプレゼントした。

2021年1月24日日曜日

古色蒼然

執筆料や講演料など,たまに予定外の収入があることがある。もちろん定年後の今はまったくそんなものはない。予定外だから,それは予定外の贅沢品に使うことにしていた。予定外の収入は,フランス製のクラリネット,安曇野の工房にオーダーした書斎机,カメラや双眼鏡に消えていった。2007年に,センター街のカメラ屋のショーケースで見た小振りのデジタル一眼レフに一目惚れして,頂いたばかりの執筆料で衝動買いした。

購入したのはOlympusのe410のダブルズームキット。学生時代に使っていたのはNikonの一眼レフで,もちろんフィルムカメラ。20年ほど愛用したが,1995年の震災後,同じカメラ屋のショーケースでZeiss,Contaxという名前に引き込まれるように衝動買いしたContax G1というレンジファインダーカメラにとって代わられた。ContaxG1は僕にとって初めての自動焦点カメラで気楽に10年間楽しめた。

もう大きく重い一眼レフカメラはしんどいから不要と思っていた時に,小振りの一眼レフに出会ったわけだ。しかし小振りといってもやはり大きく,何よりも,自動焦点で勝手に露出もシャッター速度も決めてくれるカメラで横着をしていると,余計にこんな重たいカメラを持たなくてもいいやという気持ちになり,最近はもっぱら小さなRICOH GR4またはGX200をカバンにいつも入れていた。

緊急事態宣言下,人と人との接触を避ける努力をすべく,版画教室も版画の会も欠席して,ほとんど家の中で過ごしている。それぐらいしか僕に貢献できることはない。時間は余る程ある。そんなとき,アダプター(近代インターナショナル)を介せば,NikonのニッコールレンズがOlympusに使えることを思い出した。きっかけは,大学のゼミの3年後輩,高知のC君からの突然の電話と,その後のメールである。


右下から,F2.8 28mm,F2.8 35mmの広角レンズ,左上がF2.5 105mmの望遠レンズ,カメラについているのがF1.4 50mmの標準レンズだ。今はすっかりズームレンズが主流だが,所有するNikonの古いレンズはすべて単焦点。ズームなんて使わなくても遠い被写体へは自分が近づけばいいし,近すぎる被写体からは自分が離れるといいんだ。

まずは,標準レンズで玄関先のパンジーを撮影。もちろん自動焦点は使えず,ファインダーを覗きながらフォーカスリングを回してのピント合わせだ。幸い,露出はアダプターを介しても絞り優先撮影が可能。あいにくの雨で,濡れない屋根の下から向うむきのパンジーの花びらを試し撮り。

Olympusは撮像素子のサイズは4/3型(Four Thirds)だから50mmの標準レンズは100mm相当,つまりちょっとした望遠レンズになる。上の写真はF2.8,シャッタースピードは1/160秒。下はF2.0,シャッタースピードは1/250秒。

f2.8 1/160


f2.0 1/250


どちらもISO400,トリミング以外はなんの調整もしていない。何かちょっと,嬉しくなるような写り具合だった。アダプターを介しているので開放測光は不可能。絞り込み測光ではなんともピントが合わせにくい。しかし,これからは時間もたっぷりあることだし,このカメラでそんな苦労も楽しむことにしよう。

注記)僕の書いてきた論文はほとんど執筆料がもらえるどころか,投稿料を支払って査読にかかり,その結果掲載されずに終わるという場合もあるようなものだった。講演なんてものは数えるぐらいしかしたことがない。依頼されることも少なかったが,依頼されても丁寧にお断りすることがほとんどだった。要するに,面倒臭いのだ。予定外と書いたのはこのためだが,大学には予定外ではなく,恒常的に執筆料や講演料が入る人も多かったように思う。特に僕の所属先は経営学部だったからだろうが,キャンパスにはBMWやベンツなど大学からもらうお給料だけではちょっと手が出ないような高級輸入車が並んでいた。





2021年1月21日木曜日

楽興の時

年末の「孤独のアンサンブル」に続き,年始にNHKのEテレで「明日へのアンサンブル」の再放送があった。。コロナ禍での演奏家の活動の記録だ。その中で,東京交響楽団のクラリネット奏者の吉野亜希菜さんが,自宅の小さな防音室で,一人チャイコフスキーの花のワルツを演奏するシーンがあった。何か,訴えかけてくる迫力のようなものがあった。後で13人のアンサンブルでもこの曲が演奏されるのだが,音楽の偉大さを実感する番組だった。版画は,クラリネットとピアノ。篆刻はシューベルトの「楽興の時」の楽興だ。

一時期,クラリネットに没頭していた。習っていたI先生は東京藝術大学出身。僕には上等すぎる先生だった。他にI先生のレッスンを受けていたのは,すでに吹奏楽団やバンドでクラリネットを吹いている人,音大を受験する高校生など。僕だけが騒音とミュージックの境界線を放浪する下手くそだった。

それでも,先生がお手本で吹いてくれるクラリネットの音色にとても幸せな気持ちになり,月に二回のレッスンがとても楽しみだった。それだけで十分だったんだが,I先生はこんな僕相手でも手を抜かない。レッスンでは,先ずは一番低い音から長く伸ばした音を順に吹いて,その日の調子を確認。先生から「今日は調子がいいね」と言われることは,年に一度か二度。それが終われば音階練習。赤いAlbertの本を長調,短調と順番に一つずつ練習する。


音階といってもドレミファソラシドだけではない。いろんなパターンがあり,スタッカートやスラー,その組み合わせでタッタッターラとかターラッタッタッなど,いろんなバリエーションを先生に指定されて吹かなければならない。至難の技だった。ひと月で一つの調が終わることもあれば,ふた月かかっても◯が入らない時もある。


それが終わればエチュード(練習曲)。習い始めからエチュードはすべてランスロ(Jacques Lancelot)のもの。最後は写真にある緑色の25のエチュードだった。最近,郡尚恵さん,工藤雄司さんというプロのクラリネッティストがそれぞれこのエチュードを演奏するYou Tubeに偶然巡り合った。

僕が苦労して吹いていたこのエチュードはこんなに美しい曲だったんだ。そして動画を見ていると指が信じられないように動いている。もちろん僕はこんなに上手に表情豊かに吹けなかったが(I先生も,さすがにおまけで◯を入れてくれてたんだろう),指は同じように動いていたはずだ。そうでなければ音は出ないから。こんなことができるようになっただけでも,人生に意味があったと言えそうだ(笑)。

それが終わると,いよいよ先生が僕の力に合わせて選んでくれた曲なのだが,そのころにはもうクタクタ。体力はほとんど残っていない。一人で曲を吹いて先生が指導してくれる場合もあるし,先生とのデュエットの場合もある。

集中して音階やエチュードを練習するレッスンは,音楽(音を楽しむ)というよりは,修行をしている感覚だった。しんどかったが,けっしてレッスンは嫌いではなかった。ただ先生とは楽器も同じクランポン(RC),リードも同じヴァンドレン(先述の吉野さんも美しい音色だったが,56という高価なリードが防音室にたくさん積んであった)。それなのにこんなに音が違うのは何故だろう,澄んだ音が出ないのは僕の心が澄んでいないからだと絶望的になったこともある。

さて本題。レッスンを通して思い知ったのは,どうしても乗り越えることができない,才能という問題だ。ドレミファソラシドの音階でも先生が吹くと,「間」というか,演歌でいうと「こぶし」というか,それがミュージックになるのに,僕が吹くとただ音符が並んでいるだけ。つまり僕には音楽の才能は全くなかった。それでも,まさに音楽の神様が降りてくるような不思議な時を何度か経験した。

一つは先生とのデュエットで,先生の音楽につられてまるで勝手に指と息が動くように上手く演奏できることがあった。もちろん僕が吹けるぐらいの簡単な曲なんだが,自分が楽器で音楽を演奏しているのではなく,音楽が楽器を通して僕に演奏させているという感覚でまさに楽興の時(Moments Musicaux )だった。

もう一つは,もう一人のI先生のピアノの伴奏に合わせて吹いた時。ピアノのI先生も,舞台の袖で聴いていたクラリネットのI先生も,フロアで聴いていた同じくI先生に習っているセミプロのIさんも,演奏が終わった時に,唖然として目を丸くしているのが不思議で面白かった。僕の演奏の方がよほど不思議だったんだろうが(笑)。たった二度か三度の経験だったが,そういう音楽の神様のいたずらを,もう一度経験したいとずっと続けていたんだと思う。

漱石の『夢十話』の第六夜は,護国寺の山門で運慶が仁王を刻んでいる話だ。「よくああ無造作に鑿を使って,思うような眉や鼻ができるものだな」という自分の独り言に「なに,あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを,鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずがない」と若い男が答える場面がある。僕のクラリネットでの楽興の時もそうだったのかもしれない。



通し矢

 三十三間堂は,とても細長いお寺だ。その幅は東西20メートル余りなのに,長さは南北100メートル以上と驚くほど長い。三十三はお堂の柱の間の数が33であることを示している。つまり柱は34本ある。柱の数を数えたことは無いが,内部には全面仏像がずらりと並べられており圧巻だ。

京都は七条通りを挟んで国立博物館の真向かい,つまり真南に位置している。博物館の予約時間よりも早く到着した時や,入り口にとんでもない長さの行列を見る時の時間調整に訪れるのも良し,博物館の鑑賞が終わった後,電車の時間に余裕があるならば気分転換に訪れるのも良し。いずれにせよ,飾り気のあまりない素敵なお寺だ。三十三間堂の木版画を作成した。


例年なら一月に通し矢が開催される。全国から弓の達人が集い,60メートル先の直径1メートルの的を射る。残念ながら今年の通し矢はコロナ禍で中止。

通し矢が行われるのはお堂の西側だから,東側の正面から見たこの版画の丁度裏になる。矢がこんなに高く飛ぶことは無いだろうが,月を的に見立てた。来年の通し矢が待ち遠しい。

2021年1月14日木曜日

冬の情景 Winterszene

寒中お見舞い申し上げます。 定年退職後二年になろうとしています。昨年は積み残しの二つの論文もすべて決着が付き完全引退,定年後の新しい生活にも少しずつ慣れてきた年でしたが,大切な友人や師を突然亡くし,途方に暮れた年でもありました。今年は社会的にも,個人的にも良き年に転ずることを願っています。

さて,木版画教室の課題(モノトーン)を作成しました。青(cerulean blue)一色の濃淡だけで冬景色を描いています。単純ですが,色を変えて,春,夏,秋などに応用することは簡単だと思います。ただ色選びが難しいですが。また時期を見て,春,夏,秋に版画をアップロードします。


最後にスキーに行ったのはもう30年も前になります。冬になると,神戸駅からシュプール号という夜行列車に乗って,妙高高原まで家族で行っていました。夜出発して,朝到着,その日の午前中から滑っていました。元気だったんだと思います。板はいまだに家にありますが,もうスキーに行く元気はありません。しかし,この版画のようなクロスカントリーでのんびり雪の森を楽しみたい気持ちはあります。

ぼーっと生きていると危険だ!

トイレの手すりで頭をしこたま打った。手すりというか硬い金属製のハンガーのようなもの。尖った角で打ったため,少しだけだが血が出てきた。それもすぐに止まったから大丈夫だろうとたかを括っていたのだが,夜になると傷口がズキズキ痛むし,打った側の目や耳まで痛いような気がする。しかし,肩こり...