2024年1月27日土曜日

万葉集より「天を詠む」

「通読」という言葉が適当であるかどうかはわからないが,最初から最後まで系統的に目を通すという意味では僕は万葉集を通読したことはない。それどころか,実は『万葉集』そのものも持っていない。これまで目を通したものは抜粋された歌に口語訳や解釈が併記されたものだけなのだが,それでも鮮やかに情景が浮かび上がるような素敵な歌がたくさんあった。

もちろん歌の解釈は情景だけではなく,もっと内面的なものであることは承知しているが,どうも僕は目に見える像として物事を理解する傾向が強い。これまで書いてきた論文もすべて最終的には図形的な直感イメージに基づいている。数式に基づいて展開されるロジックも,それを絵に描けて初めて間違っていないと確信することができた。つまり昔流の言葉で言えば「幾何」は得意だが「代数」は苦手だったわけだ。これは中学高校の成績に如実に表れていた。

万葉集に関する手元にある書籍
斎藤茂吉(1938)『万葉秀歌(上),(下)』(岩波新書)
大岡信(2007)『古典を読む:万葉集』(岩波現代文庫)
リービ英雄(2004)『英語で読む万葉集』(岩波新書)

そんなわけで,木版画を始めた頃から,万葉集のいくつかの歌から得られるイメージを版画にできたらと何となく考えていた。好きな歌はたくさんあるのだが,まずは僕自身もっとも明快で描きやすいイメージが得られたものから始めることにした。

天の海に 雲の波立ち 月の船

星の林に 漕ぎ隠る見ゆ

果たしてこれが和歌として優れたものなのかどうかは文学的素養のない僕には良くわからない。最初は雲や月や星をそれぞれ海の波,船,林に喩えた言葉遊びのように感じただけだった。事実この歌は斎藤茂吉(1938)にも「秀歌」として取り上げられてはいない。僕も,歌そのものに感動したのでは無く,1300年以上も前の人々も僕達と同じように星空を眺めて,壮大な宇宙に思いを馳せていた事実に感動したのである。これは清少納言が「星は昴」と書いていることに対するものと同じ感動である。


天を詠める『人麻呂歌集』

大岡信は,この歌について以下のような解説を与えている。

おそらく七夕伝説を読んだ歌ではなかろうかと思われる。・・・(中略)・・・「星の林に漕ぎ隠る見ゆ」という空想は,一年に一度逢うことのできた男と女が,一艘の船の中に相擁しつつ,林の奥へ漕ぎ隠れてゆく情景を思わせないではおかない。

【大岡信(2007)p. 191】

実は,この歌を見,その後に続くこの解説(解釈)を読んだ時僕は大きな違和感を覚えた。前述のように僕の感動は,そのような複雑な背景ではなく,古代の人々が単純に天文学的に壮大な宇宙に思いを馳せていたということだったからだ。

そんなとき,リービ英雄(2004)に偶然出会った。そこにはこの歌が次のように英語に訳されている。

On the sea of heaven

the waves of clouds rise,

and I can see,

the moon ship disappearing

as it is rowed into the forest of stars

【リービ英雄(2004)p. 77】

歌の後に著者の解説が加えられているが,そこには七夕伝説に関する記述は一切ない。中国の漢詩の影響について多少触れてはいるが,それどころか

その原作は,翻訳してみると,世界のどこの国で作者が夜空を見,どの言語でことばをつづったものなのか分からなくなる。(p.78)

夜空を見て天を詠み,天の姿を地上の比喩でつなげてみせる。そのような人類共有の根源的な創作意志の表われに,・・・(p.79)

というように,七夕伝説のように限定的なものではなく極めて普遍的なものと捉えられている。これは僕がこの歌に最初に感じたイメージに極めて近い。

本題に戻って木版画の話。単純に壮大な宇宙の広がりを表すために,色は明るいブルーの空に少なめの星と,アルデバランを暗示する赤い星を描いた。月の船は三日月そのもの。満月の明るさでは星はあまり見えないはずだ。船を漕いでいるのは相擁する二人ではなく無国籍の一人。女性でも男性でもどちらでも良い。もう少し工夫は必要だがとりあえず今の僕の実力ではこれが精一杯だ。歌そのものが秀歌でなければ,良い版画はできないということも実感した。次は歌そのものに感動した秀歌を版画にしてみよう。


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