2021年3月31日水曜日

万能カレンダー作成キット

 昨年,木版画のカレンダーを共同で作成する機会があった。もちろん僕は初めての経験だが他の方はすべて経験豊富な方だから,カレンダーにはどのような版画がマッチするかを心得ておられるのか,どれも素晴らしい木版画で,僕の簡単な花火の版画はすっかり見劣りしてしまった。

今年は,一人で作成してみようと思い立ち,どうせなら数字の部分も木版画で作成しようと考えた。これで正真正銘の手作りカレンダーになる。毎月に対応した12種類のカレンダーを作れば良いのだが,それなら別の年は使えない。あと5年ぐらいは生きたいと思っているから,これから毎年使うことができるような木版画を考えることにした。もっとも単純な方法は,【1】から【31】までの数字を31個の小さな木片に彫り,それを毎月並べ換える方法である。しかし,カレンダーの数字の規則性を考えると,そんなに多くの木片は必要ない。つまり,

  1. カレンダーには日曜から月曜まで7列あるが,その数字を各列に沿って縦にみると,それらは初項がそれぞれ【1】から【7】までで,公差が7の等差数列になっている。つまり,たとえば【1】の列では【1】の下は7を加えた【8】,その下はさらに7を加えて【15】,その下は【22】,その下は【29】と5個の数字が縦に並ぶ。同様に【2】の列は【9】【16】【23】【30】と5個の数字が縦に並ぶ。
  2. 【3】の列も同様に【3】から【31】まで5個の数字が並ぶが,【4】【5】【6】【7】で始まる列については,大の月でも一月は31日までしかないため,それぞれ【25】【26】【27】【28】で終わる4個の数字が並ぶだけである。
  3. ところが,2月は通常28日であり,4年に一度の閏年でも29日しかない。したがって【1】【2】【3】で始まる列では【29】【30】【31】がない場合もある。つまり万能にするためには,それらを切り離し,それぞれ4つ数字の並ぶ縦の木片を7種類と【29】【30】【31】の3個,合計10個の木片を作れば,それらを組み合わせるとあらゆる場合に対応可能。木片の数は31個に比べて三分の一以下に減少する。
  4. しかしここで問題が発生する。日曜日スタートのカレンダーでは,大の月が,金曜日や土曜日から始まる場合,数字が縦に6個並ぶのである。つまり,通常数字の配列は5行7列だが(2月は4行7列になる場合もある),その月の数字の配列は6行7列となる。事実2021年では1月,5月,10月がそうである。
  5. このことは上の方法で十分対応できるのだが,紙面の節約のため,【23/30】【24/31】という2個の木片を追加し,すべての月の配列を5行7列に統一した。それに応じて【2】と【3】で始まる列から【23】と【24】を切り離し,合計12個の木片となる。それでも31個の木片に比べるとかなり減少し手間が省ける。


土曜日から始まる大の月について,試しにカレンダーを作成した。

必要な11個の木片(一番上は曜日)

並べ替えて枠に収めると,,,

刷りあがり

これなら宇宙が続く限り,あらゆる年のカレンダーに対応している。しかし,刷ってみると大きな問題が発生した。つまり日曜や祝日は赤い色の数字にしなければならないが,一度黒を使ってしまうとなかなかその色が抜けないのである。もう1セット赤色用の同じ12個の木片を彫り,二回刷るという方法もあるが,,,。何か良い方法はないものだろうか?来年のカレンダーを作成するまでには十分な時間がある。これをプロトタイプとして,字の大きさや,書体も含めて,これからいろいろ考えるのも楽しみだ。


小野桜づつみ回廊

 今日で,定年退職後ちょうど2年になる。定年退職後は「教育(きょういく)」と「教養(きょうよう)」が無くなるとよく言われる。つまり「今日行く(きょういく)」所がない,「今日用(きょうよう)」がないのだ。特に今年度(もう年度という時間の区切りは僕にはあまり重要ではないんだが)はコロナ禍のため,週に一度の山奥のパン屋さんと和菓子屋さんへの買い出し以外,外出することもほとんどない。

今日は,そのついでに思い立って「小野桜づつみ回廊」というところまで車で桜を見にいってきた。自宅から車で1時間ほどのところにある。昨日までの黄砂もなくなり絶好のドライブ日和。

「小野桜づつみ回廊」はK大の研究助成助手だったIさんに昨年初めて教えてもらった。なにぶん交通不便な田舎で平日だったためか,見ての通り(写真)人出も多くなく,何よりも加古川の堤防の上という風通しのよい所にあるため,いわゆる三密とは無縁である。写真は水面に映る逆さ桜だが,少し風があり漣がたっていたためはっきりとは映らなかった。

小野まで行ってふと中学・高校の同級生のF君のことを思い出した。結構遠いところから通ってきていたんだ。一度連絡してみようかなという気持ちになった。

2021年3月30日火曜日

物干し:刷毛の乾燥用

木版画を始めて2年になる。なかなか技量は上達しないが,道具はだんだん揃ってきた。始めた頃は,すべて我流で,糊や刷毛を使うことも知らなかった。県立美術館の版画教室で先生や先輩に教えていただき,糊や刷毛を使うことで,刷り上がりは見違えるように綺麗になった。

使用後,刷毛には色が残るので,色の系統別に複数本用意しなければならないことも教えてもらい,赤,青,黄,黒,白用の5本使っている。それでも,どうしても色が残るため,使った後は石鹸で泡だてて綺麗に洗うことも教えていただいた。洗った後の乾燥は刷毛を下向きに吊るして自然乾燥させるのが良いと言われたので,そのための「物干し」を作成した。材料は100円ショップとホームセンター。材料費は全部で500円ぐらい。

物干し全貌

刷毛のお尻の金具

刷毛のお尻に金具を付けるときには要注意。無理をすると柄が割れてしまう。実際一本ヒビが入ってしまって木工用ボンドで応急修理。何分刷毛のお尻は小さいのでここは改善の余地が残る。

ところで,一番右端にぶら下がっている「たわし」のようなものも版画用の擦り込み刷毛。これは高価なものらしいし,僕は葉書サイズの小さな版画しかしないから必要ないやと思っていた。しかし,版画教室でご一緒したOさんがプレゼントしてくれた。使ってみると,小さい刷毛では太刀打ちできないほど素晴らしい。高価なものだから色別に5つも揃えるのは大変だ。またこれは刷毛を下向けにして乾燥するのも少し困難。

版画教室で知り合った諸先輩はとても親切だ。プレゼントはこの「たわし」刷毛だけではない。Mさんなど木版画のテクニックや彫刻刀の研ぎ方を教えてくれるばかりか,僕が篆刻の経験を話すと,ご自宅にあったという篆刻用の印材(ハンコ用の石)や道具,書籍をごっそりプレゼントしてくれた。これだけあれば,篆刻作品用の石はもう買う必要がない。Mさんからは今日嬉しい知らせがあった。

Hさんは自作のカレンダーを送ってくださったり,先出のKYさんからは篆刻用の印泥,変わった自然石や書籍など沢山いただいている。これらの方々を含めて,ことあるたびにいろんな方からお菓子や版画用紙,トレーシングペーパーなどの版画のための道具をいただき恐縮している。こんなにいろいろいただくのは,よほど僕が貧乏に見えるのだろうか。まあお金持ちではないのは確かだが,,,。

版画教室は本当に楽しく,毎回ワクワクしながら県立美術館へ通った。今年度はコロナ禍で前半の半年間は休講,後半の半年間も自粛で,パスする方も多く少し寂しい一年だった。4月からの教室も申し込んだので,これらの方々との再会が楽しみだ。今日は健康のための夜の散歩の途中,綺麗な夜桜に遭遇した。






2021年3月18日木曜日

ニュービジネスモデル:ドライビングレインジ

朝突然,もと同僚のMさんから,近くのゴルフ練習場まで来ているので出てこないかと電話があった。近くと言っても幹線道路から奥まる人里離れた山奥なので,これまで見たことも聞いたこともなかった。ゴルフはやめてしまって久しいが,Mさんの案内によれば,自宅から車で10分ほどで行くことができる所だし,ちょうど朝食をとった後だったから出かけてみた。

クラブも何も持たずに出かけたら,Mさんが玄関で待っていてくれた。何よりも驚いたのは,街中でよく見かける高いポールとグリーンのネットが張られた鳥かごのようなものではなく,自然の谷あいを利用しているため,打ち上げのコースに出たような感じである。圧迫感はまったくなく,朝の空気がとても心地よい。

席は100程だろうか,プレイしているのはほとんどお年寄り(そういう自分もMさんもお年寄りなんだ!)で50人足らずだったように思うが,お天気もよく本当にのどかな自然のなかで楽しんでいるという雰囲気だ。アンティークな薪ストーブの近くの席で,しばらくMさんに借りたクラブを軽く振ったりしながら談笑していると,「今からボール拾いの時間」という場内放送があった。

なんとそれまでプレイしていた人たちが,ボール拾いを始めるのである。場内の一角で,野球用のグラウンドの整地に使われるトンボのようなものをとり,ボールが散らばるレインジへ皆散らばって行く。よく見ると,レインジに溝が何本か切られておりそこに水が流れ出した。その溝へトンボで散らばったボールを僕たちが掃き込むわけだ。

谷あいの打ち上げコースだから,レインジの奥から手前へ水が自然に流れ,ボールが水に洗われながら打席のある建物の方へ流れていく。30分足らずですべてのボールがレインジから建物へ戻って行った。別に腰をかがめるわけでもなし,年寄りにも無理のない姿勢でのボール掃きを皆楽しんでいる。ボール拾いが終われば,メンバーにはボール(2回参加で40球)とお茶がサービスされる。

ドライビングレインジのことを日本語では「打ちっ放し」とはよく言ったもので,お客は打ちっ放しで飛んで行ったボールのことは知ったことではない。しかし,ここはそうではない。打ったボールは自分で後始末をするのである。先に言ったように少しばかりの報酬がある。支払われる報酬は,ボール集めのための人を雇うより費用は少ないはずだ。

自分たちがボール集めに参加するわけだから,その間プレーを止めて時間を持て余すわけでもなく,スイングから離れて筋肉をほぐす程度の軽い運動の時間が持てる。つまり誰も嫌な気持ちにならないし,損をした気分も感じない。練習場が位置する自然をうまく利用したとても素敵なシステムだ。今流行りのことばで言えば「ビジネスモデル」だろうか。

僕は経営の専門家ではないので,ビジネスモデルについては詳しくないが,少なくとも「機器本体を安い価格で販売し,購入後は高価な消耗品を売って利益を上げる」ような経営をビジネスモデルというならば,このゴルフ練習場の「取り巻く環境や顧客の特徴を見抜いて活用する」という経営の方がよほど上等のビジネスモデルだと思う。だれも嫌な気持ちにならないところがとても良い。

どうも僕自身の嗜好には合わなかったゴルフであるが,日程を調整し,高いお金を払って,遠くのゴルフコースへ無理して出かける「社会的ゴルフ」だけがゴルフではない。日頃使わない筋肉を使い体のバランス感覚を保つため,一人気儘にこのドライビングレインジへ来て,ボールを遠くへ飛ばす爽快感と,ボール拾いを楽しもう。そう思って50年以上前の古いパーシモンの正真正銘のウッドを納戸の奥から引っ張り出してきた。

手前より1番,3番,5番ウッド





A place I have never been (IV)Colored version: Silk Road(絲綢之路:天山南路)

 天山南路の木版画に,色をつけてみた。いつも原色のきつい色になってしまうので,意識して薄いパステル調の色にした。自分が抱いていたイメージに近いものになったが,霞がかかったようにぼやけてしまったような気もする。



2021年3月7日日曜日

A place I have never been (III): Silk Road(絲綢之路:天山南路)

僕は1982年にはじめて外国へ出かけた。渡航先はヨーロッパだった。その後1985年 - 86年(フィラデルフィア),1991年-92年(パロ・アルト)と二度に渡りアメリカで暮らし,1998年にはドイツ(マールブルグ)で半年間生活したし,それ以外にも毎年のように外国に出かけた。しかしお隣にある中国へ初めて行ったのは1998年と比較的最近のことだ。

この間中国と縁がなかったわけではない,1988年に初めて受け入れたM君は中国からの留学生だったし,二度目のアメリカ滞在で共同で研究をしたスタンフォード大学のL教授は香港出身だった。はじめて中国を訪れたのは三国志で有名な四川省の成都で,当時大学院の学生だったN君(現K産業大学教授)らと研究上の調査で訪れた。上海で飛行機を乗り換え随分長い間飛んだ。

自分ではすっかりシルクロードへ来た気持ちだったが,地図を見ると天山南路の起点である敦煌まではまだ2000キロもある。シルクロードはとても遠い所だった。おそらくもう行くことはないだろう。ちょうどR大学の助手になった時期,NHKで「シルクロード -絲綢之路(しちゅうのみち)」というドキュメンタリー番組があり,番組で流れる音楽が好きで喜多郎のレコードも購入した。シルクロードは未だに憧れの場所である。

40年も前なので,番組の内容はほとんど憶えていないのだが,砂漠を行くラクダの隊商や,遠くに映る山並みを断片的に憶えている。おそらく天山山脈だろう。そのおぼろげな記憶をもとに,山や,砂漠,ラクダを組み合わせて木版画を作成した。色使いはとても難しく,シャドウブルー一色の濃淡だけで作成した。色使いについて,このみ先生に教えてもらおう。




篆刻はいずれも天山南路。右上から反時計回りに読む回文。大きさは上が40mm×40mm,下は45mm×45mm。K大名誉教授のU先生に中国書法を習っていた時期2018年に作成したもの。ちょうど,篆刻だけではもの足らず(というより表現力の無さから篆刻だけでは作品にならない),木版画を始めた時期である。



天山南路

天山南路









A place I have never been (II): Africa

50年以上も前に発表されたS教授とM教授の論文,A Dynamic Analysis of the American Economy, 1902-1952 (International Economic Review, Vol.5, No.2 May 1964, 125-164)は次のような書き出しで始まる。

Once upon a time, there was a Japanese priest named Noh-in, who was notorious for his eccentricities. After having sat at a window of his house in Kyoto for several months and acquired a sunburn, he pretended to have come back from the Far North of Japan and published poems singing of the journey. Like Noh-in we are writing a story about the American economy, though one of us has never been abroad and the other has only made brief visits to the United States to attend some conferences on mathematical economics. 

つまり,「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」という歌を詠んだ能因法師は,実は陸奥を旅したことはなかった。そのため,家に篭って窓際で十分に日焼けして,あたかも陸奥を旅してきたようにしてから,この歌を発表した。S教授とM教授は,自分たちがアメリカの経済を分析することを,能因法師に例えて謙虚に述べているのだ。

アフリカは,いつか行ってみたいところだった。事実,高校時代には,通学路が同じのF君(後に映画監督になった)N君(後に医師となった)と一緒に,いつかアフリカをジープで縦断するという計画があり,それぞれの役割分担まで決めていた。無邪気なものだ。しかし,仕事を含めても結局一度も行けなかった。

アフリカへ行ったことのある友人によれば,アフリカに行けば確かに人類の起源はここにあると感じるそうだ。20年以上も前だろうか,学部のゼミの女子学生のSさんが卒業を前に,南アフリカへ旅行をした。そのときにお土産で頂いた赤いワインと木の人形がある。そんなアフリカに関する諸々の思いとイメージを木版画にした。木版画のズレ,掠れ,欠けはアフリカのイメージを強くするため意図的に付けたものである。意図が十分生かされているかどうか,,,。


朝日を見る母と子


IMF(国際通貨基金)のSさんと共同で発表した論文 は全世界の国々の間の財・サービスの取引を体系的・網羅的に記述した国際産業連関表に基づいている。EU,アメリカ,アジアの三地域の国々の間での取引が大部分を占めるが,もちろん取引にはアフリカの国々も含まれている。

当時(現在も)僕はアフリカには行ったことはなかったが,Sさんはちょうど論文を発表する時期にはIMFのアフリカ部門に異動しており,何度もアフリカを訪問していた。というわけで,能因法師のケースより,僕たちははるかにアフリカに関わりはあったわけだ。引退した現在,Sさんとの研究上の交流はなくなってしまった。研究を続けていると,もしかしたらアフリカへ行く機会もあったかもしれないと思うと残念だ。

(注記)Sさんは確かナイジェリアの担当で,よく訪問していたと記憶している。新しいWTO(世界貿易機関)の事務局長はナイジェリアの女性だ。Sさんはおそらく忙しくしていることだろう。共同研究においても忙しい中,Sさんは僕のわがままな要求をすべて受け入れてくれ,共同研究者としての働きと貢献は測り知れない。心から感謝している。





A place I have never been (I): Antarctica

『職業としての学問』(マックス・ウェーバー著,尾高邦雄訳,岩波文庫)に書かれているような難解で哲学的な議論は横に置いておいて(実はそこに書かれていることは,僕の大学観におおいに影響を与えているのだが),僕は,曲がりなりにも学問を職業とすること39年,定年退職に際して「一体自分は何をしたかったんだろう,そして一体何をし得たのだろう」と考えた。自分なりに,そして自己満足に過ぎないかもわからないが,明らかにできたことはいくつかある。しかしそれらはすべて,極めて限定的な状況の中でだけ言えることであって,社会経済全体を普遍的に考察するには,あまりにも小さくて無力だったように思う。 

 大学院時代から継続して指導を受けたS教授と同じように国際的な仕事をしなければならないという強迫観念からか,僕は自分の非力を顧みず論文は国際的な場で報告することを基本的な姿勢にしてきた。海外の研究者との共同研究,学会や研究集会への参加などで何度も海外へ行ったが,この一見「国際的」な姿勢も,研究内容と同じで実は極めて限定的なものだ。地球には,6つの大陸がある。ユーラシア大陸,アフリカ大陸,北米大陸,南米大陸,オーストラリア大陸,そして南極大陸である。つまり,僕の行った大陸は,このうちユーラシア大陸と北米大陸の二つだけなのである。 

 もちろんすべて仕事で訪問しているのであって観光ではないのだから,当然なんだが,行きたかったが行けなかったところもたくさんある。その中には行こうと思えば行けたかもわからないが,行こうと思っても行けなかったところもたくさんある。まさに南極大陸がそれである。もし行けたら,「到着前はさぞ感動するだろう」との妄想で,南極の氷海を進む接岸直前の砕氷船「しらせ」を木版画にした。実際に行ったことがないのだから,このような景色があるのかどうかはわからない。でも,なんとなくこんな感じかもわからない。




(注記)北米大陸と南米大陸,ユーラシア大陸とアフリカ大陸はそれぞれ繋がっているように地図では見えるが,実は前者はパナマ運河,後者はスエズ運河で分離している。

ぼーっと生きていると危険だ!

トイレの手すりで頭をしこたま打った。手すりというか硬い金属製のハンガーのようなもの。尖った角で打ったため,少しだけだが血が出てきた。それもすぐに止まったから大丈夫だろうとたかを括っていたのだが,夜になると傷口がズキズキ痛むし,打った側の目や耳まで痛いような気がする。しかし,肩こり...