2024年1月10日水曜日

子育て支援エスノグラフィー

実は昨年3月から学童保育で働いていた。65歳で大学を定年退職するまで,狭く閉じた社会で,ただひたすら研究と教育に没頭してきた僕にとって,新しい世界での新しい仕事へのチャレンジは予想したよりも遥かにエキサイティングで,日々発見の10ヶ月はワクワクするようなちょっとした「冒険」だった。

何年か前から「子育て支援」のお手伝いをしているカミさんから,同じようなボランティアをしてみたらどうかと,市の広報を見せられたのが僕の冒険の始まりだった。広報に示されたQRコードから登録すると,早速とある児童館から電話があり,面接の結果あれよあれよという間に採用された。何の取り柄もない僕を雇うぐらいだから,よほど人手不足なんだろう。ボランティアのつもりで応募したのだが,規定の報酬が支払われることを契約時に知らされた。

勤務は原則として週に3回,1日4時間。バスと電車を乗り継ぎ通勤することになった。通勤時間は片道1時間余り,六甲山の裏と表を繋ぐ山岳列車の先頭車両,運転席の窓越の風景はさながら遊園地のジェットコースターでスリル満点。田舎の私鉄と侮るなかれ。駅で流れる列車の接近音はメンデルスゾーンの交響曲第4番「イタリア」第一楽章の第一主題だ♫。そんなことを考えていると,いかにも田舎風の名前の最寄駅,箕谷駅も,ついイタリア風にミノターニと発音したくなる。prossima fermata, Minotani!(プロッシマ フェルマータ,ミノターニ!;次の停車駅は箕谷!)

箕谷駅 stazione di Minotani


職名は補助員,指導員や支援員という資格を持つ先生方を補助する非正規労働者だ。僕はその資格を得るための講習を受ける資格もないという正真正銘の無資格補助員である。ちなみに保育所,幼稚園,小学校,中学校,高等学校の先生はその講習を受ける資格があるが,どういうわけか大学の先生,つまり大学教授には資格がない。当初,少しばかりの経験を活かして,放課後の子供たちのお勉強のお手伝いが少しでもできればと考えていたのだが,補助員に期待されている仕事は想像していたものとは程遠く,昔で言う学校の用務員さんの仕事に限りなく近い。

これまでやってきた研究という仕事は重要な仕事だと思うし,とてもしんどい仕事だったが,結局は「好きなこと」を「好きなよう」に「好きな時」にやっているためか「働いている」という感覚はなかった。それに対して,ここでの仕事は,部屋の掃除,おやつの準備と後片付け,子供達の見守りなど,「決められたこと」を「決められたよう」に「決められた時間」に,指導員や支援員の先生方の指導・監督のもとで行うことだ。それらを間違いのないように一つ一つこなしていくことは大変なことだった。一日が終わると「今日もよく働いた〜」と家路についた。はじめて働くということの意味がわかったような気がする。

通勤路にて:鯉のぼりの川渡し

それでも僕と話しているうちに「この人から,掃除やおやつの準備,後片付けという決められたサービス以外の何かを得たい」と感じた子供も何人かいたようだ。数は少ないが,そのように僕に接してくれる子どもたちと関わることはとても楽しかった。このような子どもたちには長い間の研究者生活で得た漠然とした「何か」を少しだけだが伝えることができたと思うし,僕もそのような子どもたちから多くを学んだ。子供の発想にはハッとするような独創性がある。

かねてより,老人仲間とゲートボールやカラオケ,みっともないフォームのゴルフに興ずるだけの老人にはなりたくないと考えていたが,そのような生活よりも数段有意義で刺激的な10ヶ月を過ごすことができた。ほんのちょっぴりだが,社会の子育て支援の一端を担うこともできた。慣れない仕事で失策続きだったが,僕の至らないところを寛容な心で受け入れ,慕ってくれた子供達や児童館の入り口で束の間の会話を楽しんだお迎えのお母さん方には感謝の言葉もない。子供達頑張れ!お母さん達頑張れ!

21ヶ月には遠く及ばないが,社会科学者の端くれとして,この10ヶ月間は何事にも代え難い貴重なエスノグラフィーだった。さまざまな局面でご指導をいただいた児童館の諸先生方や同僚の補助員の方々にあらためて御礼申し上げる。しかし,「僕の冒険」も今日でお仕舞いだ。夕方,公園の手前の四つ角まで子供達を送り届け,児童館での仕事はすべて終了した。公式には1月15日をもって児童館を退職する。しばし休養し,新たな課題に挑戦しよう。Man lernt nie aus!

「歌は終わった。しかしメロディーはまだ鳴り響いている」

(村上春樹『羊をめぐる冒険』より)

2024年1月10日記











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