2020年9月21日月曜日

秋分

 N君は会計学者だ。自称「歴史家」や自称「哲学者」の会計学者(自称であって,本物の歴史家や,哲学者が彼らをそう認めているかどうかは僕にはわからない)とは違って,N君は会計学を会計学として正面から正攻法で研究する会計学者である。もちろん,このことがN君が哲学的ではないということでは決してない。

僕は会計学者という種族とは概して反りが合わないのだが,なぜかN君とは反りが合い,信頼する数少ない友人の一人である。夏の初めに,N君から突然電話があった。用件は何だったか忘れてしまったから,おそらくそんなに重要なことではなかったんだろう。覚えているのは,N君が突然,「鈴虫いりませんか?」と言い出したことだけである。最初彼の意図がよく理解できなかったが,N君が飼っている鈴虫を何匹か分けてくれるということだった。N君は鈴虫を飼ってもう20年近くになるらしい。あまり虫は興味がないので,丁重にお断りした。

電話を切ったあと,ふと考えたのが,家の中で「篭」に飼うのではなく「庭」に放し飼いにすればどうだろうかということ。その後,N君に鈴虫を庭に放すということを話したが,あまり積極的に賛同する気配はなかった。おそらく鈴虫愛好家からみれば,庭に放すというのは邪道なんだろう。それは妄想だけにしておこう。

9月に入り,N君と久しぶりに食事をすることになった。その日N君はなんと,たくさんの鈴虫を籠に入れて家まで持ってきてくれた。最初戸惑ったが,それが夜になると玄関で綺麗な声で鳴くのである。想像していたより,はっきりとした美しい音色だ。

『源氏物語』の第38帖「鈴虫」では,光源氏が,まさに鈴虫(現在の松虫らしい)を庭に放し,その鳴き声を聴くことを口実に,女三宮のもとへ通う。これから少しの間,鈴虫の鳴き声を楽しみながら,妄想にふけることになりそうだ。

明日9月22日は秋分。必ずしも秋分の日が中秋の名月(太陰太陽暦の8月15日)とはかぎらない(昨年は9月13日,今年は10月1日が中秋の名月)。しかし源氏物語の設定する1000年以上前の年,秋分の日が中秋の名月だったと仮定するのも悪くはない。そう言うわけで『源氏物語』の第38帖「鈴虫」のシーンを秋分の版画にした。まさに妄想である。作者にちなんで,空は紫色。篆刻の文字はもちろん秋分だが,銀色で押印したため少し見えにくい。





2020年9月6日日曜日

白露

9月7日は白露。秋が始まるこの時期,夜中に冷えた空気が露になって草木に結び,明け方の光の中に白く輝く様子から白露と言うのである。白露の篆刻には大きな問題はない,つまり漢字をそのまま刻すだけだから,上手い下手は別にしてそれなりのものはできるが,露を版画にするのは初心者には至難の技である。

さてどうしたものかと,あれこれ考えていると,ふと中島敦の『山月記』に,白露について綺麗な記述があったことを思い出した。詩人になることを望みながら,虎になってしまった李徴が,山中で偶然再会した旧友袁傪に今の思いを詩にして伝えた直後の状況が次のように描写されている。

「時に残月,光冷やかに,白露は地に滋く,樹間を渡る冷風は既に暁の近きを告げていた。」(出所『山月記・李陵』,岩波文庫,117ページ)

これを元に木版画を作成すれば,白露の木版画となるのではないかと考えた。しかし,まさにこの場面は李徴(虎)は草叢に潜み,詩を謳い終わった静かな時で,木版画にするのはとても難しい。そこで,視覚に訴える最後の場面を示すことで,その前の白露の記述を連想するような木版画を作成した。

「一匹の虎が草の茂みから道の上に躍り出たのを彼らは見た。虎は,既に白く光りを失った月を仰いで,二声三声咆哮したかと思うと,また,元の叢に躍り入って,再びその姿を見なかった。」(出所『山月記・李陵』,岩波文庫,120ページ)


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しかし,虎になったことは嘆くべきものだろうか?それはそれで1つの生き方ではないだろうか。少なくとも僕は,人間のままでいることに比べて,虎になったり,犬になったりして暮らすことはそれほどがっかりすることでもないように思えるのだが。

版画を作成中,ふと中学・高校の同級生のことを思い出した。T大の仏文に進学した秀才の彼とは,もう何十年も会っていない。何年か前病気で倒れたと聞き,メールで少しやり取りをしたが,見舞いに行くことはできなかった。遠く離れているので,もう会うことはないかもしれないが,遅ればせながら退職の挨拶がわりにこのハガキを送ってみよう。


新二十四節気・冬至

今週末の土曜日(12月21日)は冬至。北半球では一年で夜が一番長い日だ。ただし日の入りが一番早いわけでも無いし,日の出が一番遅いわけでもない。日の入りから日の出までの時間が一番長いというだけだ。実は,日が暮れるのが一番早い日は冬至より少し前,日の出が一番遅いのは冬至より少し後にな...