2021年2月15日月曜日

与古為新

東寺は京都駅八条口から徒歩20分足らずの所にある。東寺には日本で最も高い木造建造物である五重塔があり,その姿は新幹線の窓から見ることができる。下りならば京都駅を出発して間もなく,上りならば京都駅に到着する直前である。

40歳代前半の2年間,ある小さな学会の役員をしていた。役員会のメンバーは,故O先生,N先生,K先生など,僕が学生時代に勉強した経済学の教科書を著されていた大先生ばかりだった。大先生に混じって学会の運営に関わることは,とても貴重な経験だったが,学問的実績でも,物理的年齢でもそれらの先生方に遠く及ばない僕(事実僕は最年少で,それらの先生方の20歳ほど年下だった)にとっては役員会は気疲れの多い会議であり,東京からの復路はいつも疲れ果てて,新幹線の中でぐっすり眠り込んでしまうのが常だった。

新横浜を出た頃に眠ってしまうのだが,何故か京都駅に到着するころには目が覚め,心機一転京都駅を出発後,すぐに目に入るのが東寺の五重塔だった。夕刻,スタイリッシュな新幹線「のぞみ」の窓から,1,200年前に建てられた(現在の建物は400年ほど前に再建されたものらしい)古い五重塔を見ていると,大先生に囲まれた学会の役員会という東京の異質な空間から,住みなれた研究室という日常の空間に帰る途中だということもあって,時空を超えて移動しているような,銀河鉄道にのっているような,不思議な気持ちになった。

新幹線の窓から五重塔を見るだけで,五重塔と新幹線を同時に客観的に見たことはないのだが,その不思議な気持ちを木版画にした。五重塔の横に押された印は,まさに寺の名前「東寺」だ。


京都は新しいものと古いものが妙に調和して存在する不思議な街だ。古いものと新しいものの共存や対比を考えるとき,「温故知新」という言葉があるがいかにも陳腐である。それならば「与古為新」の方が良い。これは通称ノーベル経済学賞をアジア人として始めて受賞したアマルティア・センが『危機を超えて—アジアのための発展戦略』「アジア・太平洋レクチャー」(1999年:シンガポール)の結びで引用している中国の詩人の言葉で,「古きに与(あずか)り新しきを為す」と読む。

つまり新しいことを知るだけでなく,新しいことを為すわけだ。恥ずかしながら僕は翻訳を読んだだけで原文を読んだことがない。上記の記述はアマルティア・セン,大石りら訳『貧困の克服—アジア発展の鍵は何か』(集英社新書)の60ページにある。

「与古為新」の篆刻とすれば,ちょっと格好がいいのかもしれないが,そのような教訓めいた言葉を篆刻にするのはどうも背中が擽ったくて恥ずかしい。僕は,そういう立派な言葉とは正反対の生活をしてきたからだろう。

立派な言葉を刻むよりも,二十四節気,寺の名前などを気負わず刻むのが性に合っている。立派な言葉は僕の木版画には似合わない。一時期,魯迅の筆名(魯迅は100以上のペンネームを持っていた)を淡々と刻した中国の書家「銭君匋」の模刻に没頭した時期がある。銭君匋のポリシーは僕のポリシーに通じるものがある。というよりそれに大いに影響されたのだろう。下はその時に刻した判子の一部。


魯迅筆名印集(銭君匋模刻),木版と篆刻


(追記)木版画とは関係ないが,通称ノーベル経済学賞と書いたのには訳がある。実は経済学賞はノーベル賞ではない。ノーベル財団が認めているノーベル賞は,物理学賞,医学生理学賞,化学賞,文学賞,平和賞の5つだけだ。この5つだけがノーベルの遺志による正式のノーベル賞である。経済学賞は正式には「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といわれ,賞金もノーベル財団ではなく,スウェーデン国立銀行が支払うものでありノーベル賞とはまったく別物である。

ノーベル財団の公式サイトでも,経済学賞だけはノーベルの文字は付されず他の5つの賞と明確に区別されている。授賞式の場所も時期も同じ,選考も同じスウェーデン王立アカデミー(日本で言えば今話題の学術会議のようなもの)で行われるため紛らわしいが,そして報道期間もあえてこのことには触れないが,ノーベルの遺志によってノーベル財団が授与するノーベル賞とはまったく別物なのだ。つまり言葉は悪いが,スウェーデン国立銀行が「金は出すから,名前を使わせて」とノーベル財団に申し入れたわけだ。

少なくとも僕には,「金の力でノーベル賞の権威を借りて,紛らわしさを利用して自分たちの学問を権威付けよう」という姿勢に思えて,同じ経済学を勉強する人間としてとても恥ずかしく惨めな気持ちになる。これでは類似した紛らわしい名前の商品で消費者をまどわせる悪徳業者と本質的に変わらないのではないか。

僕は,経済学は重要な学問であることは十分理解しているし,そして受賞者や経済学という学問そのものに責任があるわけではないのだが,僕が,どうしても経済学を心の底から好きになれなかった理由はここにあるのかもしれない。僕は賞というものには全く縁も興味もないが,どうしても賞が設立したければ,ノーベルの名前を借りなくても,近代経済学の父と呼ばれるアダム・スミス賞とすれば良い。その方がよほど正々堂々としている。





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