2021年2月25日木曜日

淡路島 灘黒岩水仙郷

思い立って淡路島の黒岩水仙郷まで行ってきました。多少肌寒いが絶好のドライブ日和,海岸線のオープン走行を楽しみました。水仙郷は本日で閉園,来年も全面改修のため一年中閉園とのことで,ちょうど良いタイミングでした。水仙はそろそろ終わりかけていましたが,そのかわり,菜の花が光る海をバックにとても美しく,春がすぐそこまで来ていることを実感しました。


Olympus e410 Nikkor 28mm F2.8 (f4 1/3200)


Olympus e410 Nikkor 28mm F2.8 (f4 1/4000) 


Olympus e410 Nikkor 28mm F2.8 (f8 1/320) 


(注記)オリンパスは撮像素子が four-thirds のため28mmの広角レンズは56mmほぼ標準レンズに相当。

2021年2月21日日曜日

伏見稲荷

緊急事態宣言下,不要不急の外出を控えて二ヶ月になる。外出は病院での定期検査,近所の散歩,例のパン屋さんへの小一時間のドライブぐらいだ。ずっと家にこもっていると,これまでに訪れたところ,これから訪れようとしていたところなどいろんな光景を妄想する。

これまで京都のお寺の版画を作成したが(雲龍院,三十三間堂,東寺),お寺ではなく,神社だが,何故かふと伏見稲荷の千本鳥居が頭に浮かんだ。稲荷といえば狐だが,狐のおかげでとても神秘的な空間になる。

千本鳥居

版画は,墨の濃淡と,朱色の二色。一つおきに彫った鳥居の版を二つ,黒い部分の班を一つ,グレーの道と同色の狐の重ね押し合計五枚の板を使った。刷りはかすれ,ズレているが,そのおかげで立体感が出たように思う。実は,この版画は,いままで試行錯誤で作成した木版画のなかで,僕が木版画を始めた時にイメージしていた木版画に一番近い。

篆刻は,もちろん「伏見稲荷」。僕はいなり寿司が大好物た。


2021年2月18日木曜日

四季

一ヶ月ほど前,寒中見舞いに次のように書いた:

木版画教室の課題(モノトーン)を作成しました。青(cerulean blue)一色の濃淡だけで冬景色を描いています。単純ですが,色を変えて,春,夏,秋などに応用することは簡単だと思います。ただ色選びが難しいですが。また時期を見て,春,夏,秋に版画をアップロードします。

いざ取りかかると,色彩だけで季節を表すことは簡単どころか,とてつもなく難しい。そもそも色だけでは解決できない季節の違いがある。一つは,冬の木は花や葉がないが,その他の季節はそれらがあるため形態が異なる。そのため春は満開の桜,夏は生い茂る青葉,秋は紅葉を表す木の膨らみを新たに作成した。ただし春夏秋三つの季節はすべて同じ版で,異なるのは色だけ。

さらに,冬にはスキーをする人を描いたが,同じ図柄を春,夏,秋に用いることはできない。もちろん人などは一切用いず,空と木の色だけで季節を表すこともできるのだが,今回は春には自転車(本当は大好きな横光利一にちなんで馬車にしたかったのだが,残念ながら馬車には乗ったことがない),夏にはカヌー(R大のMさんと一緒に木津川を下った楽しい思い出がある),秋にはジョギング(これはいつも三日坊主)する人を加えることにした。

以下は,その結果の四季の版画。色は春,夏,秋,冬それぞれ,オペラレッド(ピンク系),ヴィリディアン(緑系),ヴァーミリオン(朱色系),セルリアンブルー(青系)。

春; Spring; Frühling (opera red)


夏; Summer; Sommer (viridian)

秋; Autumn; Herbst (vermilion)

冬; Winter; Winter (cerulean blue)

ジョージ・オウエルは,その政治的立場を含めて,共感するところの多い僕の好きな作家の一人だ。彼のエッセイ「イギリスの季節」(小野寺健訳『一杯のおいしい紅茶』中公文庫,に所収)は「イギリスの気候は人間の扁桃腺の切除のようなちょっとした手術が必要ではないか。1月と2月を切り捨ててしまえ。そうすれば文句はなくなる」というような自虐的な書き出しで始まる。

しかし,その後語られることは,結局はその1月と2月を含めてイギリスの気候への礼賛である。要は季節季節それぞれの良し悪しは重要ではなく,それらの変化が重要である,というのが彼の主張であり,「イギリスの気候のよさは,変化に富むことである」と記している。このエッセイに書かれていること全面的に賛成というわけにはいかないが,この主張についてはほぼ同意できる。(注記)

東方(おそらくアジア),カリフォルニア,ニュージーランド,リヴィエラなどの気候を酷評するエッセイでは,何故かまったく言及されていないが,日本の季節はおそらくイギリス以上に変化を富んでいる。京都では嵐山の渡月橋を渡り,神戸では六甲山を超える通勤路は,まさにこの季節の変化を存分に楽しめるものだった。この季節の変化を感じることで随分心が洗われたのはいうまでもない。

四季の移り変わりを版画にするというテーマを少し真剣に考えてみよう。明日は県立美術館の版画教室がある。H先生に相談してプンタスに通おうかと考えている。季節の便りに添える版画だけでなく,作品にもじっくり取り組んでみたいと思っている。

(注記)季節に関するこのような主張はずっとむかしに日本でも言われている。「折節の移り変るこそ、ものごとにあはれなれ」,『徒然草』第19段。「僕はイギリスに住んだことがないから日本の気候がイギリスのそれより変化に富んでいるかどうかについては確信がない。共同研究者のSさんはイギリスにも日本にも長く住んだことがある。機会があれば一度聞いてみよう。



 

2021年2月15日月曜日

与古為新

東寺は京都駅八条口から徒歩20分足らずの所にある。東寺には日本で最も高い木造建造物である五重塔があり,その姿は新幹線の窓から見ることができる。下りならば京都駅を出発して間もなく,上りならば京都駅に到着する直前である。

40歳代前半の2年間,ある小さな学会の役員をしていた。役員会のメンバーは,故O先生,N先生,K先生など,僕が学生時代に勉強した経済学の教科書を著されていた大先生ばかりだった。大先生に混じって学会の運営に関わることは,とても貴重な経験だったが,学問的実績でも,物理的年齢でもそれらの先生方に遠く及ばない僕(事実僕は最年少で,それらの先生方の20歳ほど年下だった)にとっては役員会は気疲れの多い会議であり,東京からの復路はいつも疲れ果てて,新幹線の中でぐっすり眠り込んでしまうのが常だった。

新横浜を出た頃に眠ってしまうのだが,何故か京都駅に到着するころには目が覚め,心機一転京都駅を出発後,すぐに目に入るのが東寺の五重塔だった。夕刻,スタイリッシュな新幹線「のぞみ」の窓から,1,200年前に建てられた(現在の建物は400年ほど前に再建されたものらしい)古い五重塔を見ていると,大先生に囲まれた学会の役員会という東京の異質な空間から,住みなれた研究室という日常の空間に帰る途中だということもあって,時空を超えて移動しているような,銀河鉄道にのっているような,不思議な気持ちになった。

新幹線の窓から五重塔を見るだけで,五重塔と新幹線を同時に客観的に見たことはないのだが,その不思議な気持ちを木版画にした。五重塔の横に押された印は,まさに寺の名前「東寺」だ。


京都は新しいものと古いものが妙に調和して存在する不思議な街だ。古いものと新しいものの共存や対比を考えるとき,「温故知新」という言葉があるがいかにも陳腐である。それならば「与古為新」の方が良い。これは通称ノーベル経済学賞をアジア人として始めて受賞したアマルティア・センが『危機を超えて—アジアのための発展戦略』「アジア・太平洋レクチャー」(1999年:シンガポール)の結びで引用している中国の詩人の言葉で,「古きに与(あずか)り新しきを為す」と読む。

つまり新しいことを知るだけでなく,新しいことを為すわけだ。恥ずかしながら僕は翻訳を読んだだけで原文を読んだことがない。上記の記述はアマルティア・セン,大石りら訳『貧困の克服—アジア発展の鍵は何か』(集英社新書)の60ページにある。

「与古為新」の篆刻とすれば,ちょっと格好がいいのかもしれないが,そのような教訓めいた言葉を篆刻にするのはどうも背中が擽ったくて恥ずかしい。僕は,そういう立派な言葉とは正反対の生活をしてきたからだろう。

立派な言葉を刻むよりも,二十四節気,寺の名前などを気負わず刻むのが性に合っている。立派な言葉は僕の木版画には似合わない。一時期,魯迅の筆名(魯迅は100以上のペンネームを持っていた)を淡々と刻した中国の書家「銭君匋」の模刻に没頭した時期がある。銭君匋のポリシーは僕のポリシーに通じるものがある。というよりそれに大いに影響されたのだろう。下はその時に刻した判子の一部。


魯迅筆名印集(銭君匋模刻),木版と篆刻


(追記)木版画とは関係ないが,通称ノーベル経済学賞と書いたのには訳がある。実は経済学賞はノーベル賞ではない。ノーベル財団が認めているノーベル賞は,物理学賞,医学生理学賞,化学賞,文学賞,平和賞の5つだけだ。この5つだけがノーベルの遺志による正式のノーベル賞である。経済学賞は正式には「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といわれ,賞金もノーベル財団ではなく,スウェーデン国立銀行が支払うものでありノーベル賞とはまったく別物である。

ノーベル財団の公式サイトでも,経済学賞だけはノーベルの文字は付されず他の5つの賞と明確に区別されている。授賞式の場所も時期も同じ,選考も同じスウェーデン王立アカデミー(日本で言えば今話題の学術会議のようなもの)で行われるため紛らわしいが,そして報道期間もあえてこのことには触れないが,ノーベルの遺志によってノーベル財団が授与するノーベル賞とはまったく別物なのだ。つまり言葉は悪いが,スウェーデン国立銀行が「金は出すから,名前を使わせて」とノーベル財団に申し入れたわけだ。

少なくとも僕には,「金の力でノーベル賞の権威を借りて,紛らわしさを利用して自分たちの学問を権威付けよう」という姿勢に思えて,同じ経済学を勉強する人間としてとても恥ずかしく惨めな気持ちになる。これでは類似した紛らわしい名前の商品で消費者をまどわせる悪徳業者と本質的に変わらないのではないか。

僕は,経済学は重要な学問であることは十分理解しているし,そして受賞者や経済学という学問そのものに責任があるわけではないのだが,僕が,どうしても経済学を心の底から好きになれなかった理由はここにあるのかもしれない。僕は賞というものには全く縁も興味もないが,どうしても賞が設立したければ,ノーベルの名前を借りなくても,近代経済学の父と呼ばれるアダム・スミス賞とすれば良い。その方がよほど正々堂々としている。





新二十四節気・冬至

今週末の土曜日(12月21日)は冬至。北半球では一年で夜が一番長い日だ。ただし日の入りが一番早いわけでも無いし,日の出が一番遅いわけでもない。日の入りから日の出までの時間が一番長いというだけだ。実は,日が暮れるのが一番早い日は冬至より少し前,日の出が一番遅いのは冬至より少し後にな...