僕はかつてお習字の教室に通っていたことがある。通っていただけでまったく上達しなかったが,篆刻や木版画という道楽を覚えたのは,このお習字の教室だ。振り返れば,篆刻そのものに興味があるというよりは,篆刻の作成過程で,一心不乱に石を刻すことが気持ちよかったのだと思う。ヘミングウェイに次のような記述がある。
創作にとりかかっているときの私は,その日の仕事を終えると,誰か別人の本を読む必要があった。そうしないで仕事のことばかり考えていると,翌日再開する前に迷路にさ迷い込んでしまう。だから,一仕事終えた後は何か運動をして,肉体を疲労させる必要があった。(・・・中略・・・) 創作の井戸をからからに涸れさせず,まだ井戸の底に水が残っている段階でいったん切り上げて,夜のあいだにまた泉から注ぐ水で井戸が満たされるようにする − それが最善の策だということに私はすでに気づいていたのだ。
出典:アーネスト・ヘミングウェイ,高見浩訳「ユヌ・ジェネラシオン・ペルデュ (失われた世代:Une Génération Perdue)」,『移動祝祭日(A Moveable Feast)』(新潮文庫)
僕にとって,夜研究をいったん切り上げ,石を刻すことに没頭することが,迷路にさ迷いこまず仕事を継続するために極めて効果的だったのだ。それだけでなく,石や木を彫るということが現在の道楽にもなっている。お習字はやめてしまったが,教室で指導していただいた先生や親切にしていただいた友人たちには心から感謝している。
前置きが長くなったが,教室に通っていた当時とてもお世話になったお二人から作品展の案内をいただいた。お一人はこのブログの読者で,毎回ブログの感想を送ってくれるNさん,もう一人はインスタグラムをフォローしてくれ,いつも👍をくれるHさんである。昨日,三宮センター街の入り口の一等地にあるギャラリーへ伺った。Nさんは「良寛のうた」,Hさんは「枕草子・木の花は」だ。どちらも書だけでなく,書かれていることに感銘や共感をおぼえる素晴らしいものだった。
Nさんの作品の前で |
Hさんの作品:作品は壁にかけるのではなくテーブルに置かれていたので撮影ができない。 |
おまけに横長なので写真に収まらない。一部分だけでごめんなさい。 |
春分の菜の花 |
0 件のコメント:
コメントを投稿