今日は,大阪までコンサートに出かけた。お天気も良く,コンサートは夜なので,早めに家を出て経由地の三宮を久しぶりにぶらぶら歩いてみた。人出はすっかり戻ったもよう。三宮のセンター街は人で溢れかえっている。少し気になって,いつものお店のウインドウを覗いてみた。やっぱりあった。ウィンドウには見慣れた木版画が既に飾られていた。
四万十川:鯉のぼりの川渡し(レインボーカラー) |
今日は,大阪までコンサートに出かけた。お天気も良く,コンサートは夜なので,早めに家を出て経由地の三宮を久しぶりにぶらぶら歩いてみた。人出はすっかり戻ったもよう。三宮のセンター街は人で溢れかえっている。少し気になって,いつものお店のウインドウを覗いてみた。やっぱりあった。ウィンドウには見慣れた木版画が既に飾られていた。
四万十川:鯉のぼりの川渡し(レインボーカラー) |
教養課程で選択した第二語学はフランス語だった。しかし第一回目のフランス語の授業で聞いたフランス語は,僕がそれまで映画などで聞いて憧れていたフランス語とは似ても似つかないものだった。正確に言えば,耳に心地良く響かなかった。瞬時にしてそれを習う意欲を無くしてしまった。そのため大学院の入学試験の第二語学はフランス語では無く,独学で学んだドイツ語だ。正真正銘の独語だ(笑)。
あくまで私見だが,語学はやはり「読む」,「書く」,「話す」がバランスしていなければ身についているわけではないと思う。時々「読んだり,書いたりはできるが,話したり聞いたりはできない」という人がいるが,おそらくその人は,実は読んだり,書いたりもきちんとできていないんだと思う。「読み書き」ができて,はじめて話せるし,話せてはじめて「読み書き」ができるんだと思う。
二ヶ月間の入院中に再学習したドイツ語の教科書とノート |
独学で始めたドイツ語もやはり独学は難しく,定評あるSchulz-Griesbach, Deutsche Sprachelehre für Ausländer を教科書として,J心のルカルツ神父に習うことにした。キチンとした発音で教えてもらうと習う意欲も出てくる。ルカルツ神父の話すドイツ語は耳に心地よかった。思い起こせば生まれて初めての外国語である英語を習ったのもJ心の神父さん達だ。ドイツ語もまず話すこと,聞くことからスタートした。
僕は西欧言語の本物の発音ができる人から語学を習うという当たり前のことに慣れてしまっていたのだ。だから日本人の大先生が教えてくれる教養課程の初めてのフランス語の授業には馴染めなかったのだと思う。
実を言えばフランス語やフランス語の先生に罪があるわけではない。馴染めなかったのはフランス語だけではない。明確な目的意識のないまま大学に入学した僕にとって,大学で提供されるすべての科目にあまり興味が持てなかったのだ(👉こちら)。
一応文法の基礎を終え,ドイツ語が自然に耳に響くようになった後,大学院の入学試験に備えて独文解釈の教科書を一人で勉強した。ドイツ語そのものより例文として揚げられている文章の内容が興味深く,しばしドイツ語を離れて楽しむことができた。それらは経営学部で提供される簿記や会計という科目よりずっと格調高く学問の香りがするように感じた。
受験に必要だったドイツ語は,その後20年間,仕事(計量経済学)で使う機会はまったくなかった。そのため,すっかり忘れてしまっていたが,1998年半年間のマールブルグ滞在で再びドイツ語に興味が湧いた。正確には必要に迫られたと言って良い。講義はドイツ語ではなく英語でよかったが(英語で講義するのも死ぬほど大変だったが),カフェでのコーヒーやケーキの注文,お肉屋さんでのハムやソーセージの注文にはやはりある程度のドイツ語が必要だった。
ドイツの生活の中では,かつて教科書で習ったそのままのドイツ語,例えばDas gehört nicht mir.(それは僕のものではない)や,Immer geradeaus!(ずーっとまっすぐ) ,Es kommt gleich(すぐに来る)をさまざまな場面でしばしば耳にした。ドイツ語を聞き取れたことが嬉しくて,すぐに場所を変えて自分でも使ってみたりした。一度使えばそれは必ず身についた。このように半年間の滞在中ドイツ語をちょっぴり楽しめたのも,帰国後再びドイツ語の勉強を始めた理由である。
幸運なことに,僕が勤めていたKB大学の経営学部にはドイツ語が堪能な先生が何人もおられた。黎明期の経営学はドイツからの輸入学問だったからドイツ語が欠かせなかったのだろう。事実多くの先生方の留学先はドイツだった。中でも国際会計が専門のK教授のドイツ語はほとんどネイティヴ,本物のドイツ語だった。そんな訳で僕のドイツ語学習の環境は極めて良かった。
K教授の奥様はドイツ人で,定年退職後は日本を離れ奥様と二人ベルリーンに住まわれていた。先生は「妻は異国の地で長い間苦労したから,次は自分が異国で苦労する番だ」と言われていた。先生はドイツから日本に来られたら必ず連絡をくださり,拙宅に泊まっていかれたこともある。残念ながらK教授は僕が定年退職する直前にベルリンで亡くなられた。専門分野は全く違ったが,先生には学部学生であった時以来ずっとドイツ語を通して親しくしていただいた。
このようにドイツ語は僕の生活とは切り離せない大切なものになった。まったく上達しないが,いまでもNHK(エヌ・ハー・カー)のラジオ講座「まいにちドイツ語」は続けている。ドイツ語は僕にとって仕事上必要というものでも無いし,生活のために必要というものでもない。この「実践的合目的性」を持たないところが,天邪鬼な僕の「性分」にマッチし,ドイツ語を学び続ける大きな原動力になっている。もちろん,それが上達を妨げている大きな要因なのは間違いないのだが。
これからの人生でドイツ語を使うことはおそらく無いだろう。
春愁やドイツは遠くなりにけり。
しかし,「いつまで経っても入門レベル」のドイツ語の学習はこれからも続けるつもりだ。Man lernt nie aus!
ラジオ講座のテキスト |
一昨年,かみさんが神戸市の子育て支援のお手伝いを始めてから,帰りが遅い日は夕飯を作ることが時々ある。作ると言っても僕がやるのは二人暮らしでどうしても余る冷やご飯を使ったチャーハンぐらいなのだが,,,。若い時はよくローストビーフや焼き豚なども作っていたが,最近はすき焼きの味付けか,スパゲッティ,そして朝食時,豆を挽いてコーヒーを淹れるぐらいだ。スクランブルエッグやオムレツなど朝の卵料理も得意だが,最近はほとんどない。
そこで,一念発起,料理を習いに行くことにした。そうすれば料理当番の回数を増やして料理の種類も増やすことができる。今日がその初日。区役所の料理教室(👉こちら),中華,和食,洋食がそれぞれ一回ずつ合計3回,月に一度の3ヶ月間だけの教室。性別に制限はなく定員は12名なんだが行ってみると皆男性。それも僕が一番若いぐらいで老齢の方ばかりだった。先生は女性で,お二人ともとても親切で優しい方だった。新人は僕だけ,他の方は3ヶ月クールの教室を何度も継続されているようで親しく話をされている。
1回目の今日は中華料理。献立は
の4種類。4人一組でこれらを作る。僕のグループは欠席者がいたため3人。僕は生姜スープと,杏仁豆腐の2種類を担当することになった。思ったより簡単に,それらしいものができた。実際に食べてみるとどれも美味。
手前の二つが僕のつくった杏仁豆腐とスープ |
スープは薄味だったが,実はこれは僕の好み。15年前に腎臓を傷めて以来,塩分を控えめにしているので家の料理はすべて薄味だ。腎臓の治療のため入院した二ヶ月間は塩分のない腎臓病食だった。腎臓のためには塩分を控え,カロリーを十分摂らなければならないため朝食は塩分の多い食パンではなく,毎日,塩分に比してカロリーの高いクロワッサン。二ヶ月間ひたすら牛乳と小さなクロワッサン二個を食べ続けた(笑)。
入院中の朝食配膳の表示ラベル |
ただ思わぬ発見もあった。腎臓病食では醤油,塩,マヨネーズなどの調味料が使えない温野菜を食べるわけだが,それによって野菜そのものがこんなに甘みがあり美味しくそれ自身が味を持っているということを知ることができた。これは僕の人生で大きな収穫だったと思う。
それ以降,僕の醤油,ソースなどの調味料の使用量は激減した。好物の蕎麦でさえ,あまり「つゆ」にどっぷり浸けなくなった。余談だが,「蕎麦をつゆにどっぷり浸けるな無粋なことはしねえ。そんなことをしちゃあ,そばの味がわからねえ」と言って生きてきた男が,死ぬ前に「一度でいいからつゆにどっぷり浸けて蕎麦を食いたかった」という落語の枕があった。やっぱりどっぷりつける方が美味いな。
明日4月16日は父の命日だ。父が死んでもう43年になる。僕が父と共に生きた期間より,父無しで生きた期間の方がずっと長くなった。
20年以上使ったパタゴニアの黒のスリングバッグが流石にくたびれてきた。何度もパタゴニアのショップに持って行って修理してもらたり部品をもらったのだが,そろそろ限界かな?。襷掛けのショルダーストラップには昔の携帯電話がすっぽり収まるポケットがついていて便利だったが,スマホになると入らなくなったこともあり新しいものを探していた。
パタゴニアのスリングバッグ |
この小さなスリングバッグはとっても気に入っていた。江戸時代の武士が背負う打飼袋のような感じで襷掛けで担ぐのだが,バスや電車に乗ったときに,小さい上,担ぎ直さなくても背中からお腹側へ「くるっと」回すことができるためとても便利だ。
難点は普通のリュックやバックパックより幅が狭いということだ。つまり幅の広いものは入らない。そこで文房具もこのスリングバッグにあわせてスリムなものにすべて変えたのだ。
いまだに残っているスリムなノート:今も売っているのかなあ? |
healthy back bag |
目覚めると今日も晴天。天気予報によると今日は昨日より少し気温は上がるらしい。泊まったのは僕たち一組だけ。とても気さくな若女将のおかげで,まるで知り合いのお家にプライベートに泊まりにきているような感じだ。しっかりと朝ごはんをいただいた後,知恩院や青蓮院へ行ってみることにした。
すごい朝ごはん,しかし気が付けば完食(笑) |
知恩院の山門 |
好文亭 |
J心の舟木一夫こと橋梁の専門家T君と2月に何年かぶりに会い食事をした時,次回はもう一人のT君を誘って食事をしようという話になった。地質が専門のもう一人のT君にそのことを知らせると早速京都で食事会をアレンジしてくれた。皆中学高校の同期,僕を入れて「三匹の侍」ならず「三匹のT」だ。
せっかくだから食事の前に京都のお花見でもということになり,壬生通りにある蕎麦屋で昼食をとった後,懐かしの嵐電に乗って妙心寺と御室仁和寺を訪れ,遅咲きの御室桜を楽しんだ。コロナも落ち着いて結構な人出だ。外国の観光客が多い。
妙心寺の庭:石庭の石の溝に桜の花びらが詰まっている |
仁和寺の五重塔:背の高い桜は既に散り始めていた |
こうして見ると皆歳をとったな。当たり前だが皆同い年。 |
鴨川が見えるお座敷 |
鴨川と東山の夕暮れ |
泊まった部屋から見える素敵な坪庭 |
桜餅がお汁に?と思ったが,道明寺粉のお餅の中身は鯛 |
4月になったばかりで早すぎるし,まだ改善の余地は残っているが,とりあえず一つ木版画をアップロード。出来上がったものを手元に置いておくと落ち着かない。ブラームスのドイツ歌曲 "Mainacht(五月の夜)"を聴いていて浮かんだイメージをそのまま木版画にしてみた。相変わらず小学生の図工の宿題のような絵柄だが,月に関する第二章だ。
Wann der silberne Mond durch die Gesträuche blinkt,
Und sein schlummerndes Licht über den Rasen streut,
Und die Nachtigall flötet,
Wandl' ich traurig von Busch zu Busch.
愛聴盤はナタリエ・ストゥーツマン(Nathalie Stutzmann)というコントラルト歌手(👉こちら)。大好きな曲だ。
Mainacht |
まあ何となくの妄想のイメージなんだが,実はこれは半年間滞在したマールブルグ大学の宿舎の窓から見ていた景色に似てなくも無い。振り返れば,もっとも熱心に講義の準備をしたのは,ドイツでの半年間だったように思う。春から夏にかけてドイツは日が暮れるのが遅く,こんな風景が記憶に残っているというのはきっと夜遅くまで準備していたんだろう。ドイツに到着したのは今から25年前の今日だ。
春の月 ドイツは遠く なりにけり
今週末の土曜日(12月21日)は冬至。北半球では一年で夜が一番長い日だ。ただし日の入りが一番早いわけでも無いし,日の出が一番遅いわけでもない。日の入りから日の出までの時間が一番長いというだけだ。実は,日が暮れるのが一番早い日は冬至より少し前,日の出が一番遅いのは冬至より少し後にな...