紛れもなく金閣寺は京都における必見の名所の一つだ。僕が最初に金閣寺を見たのは小学校五年生の時だった。ちょうどその年の夏に死んだ祖父の納骨のため,父,母,弟と4人で京都の知恩院へ来たのだ。納骨が終わった後,両親に連れられて,二条城,金閣寺,龍安寺などのお決まりのコースを観光した。
二条城も,金閣寺も,龍安寺も小学五年生の興味を引くものではなかった。その後学生時代に訪れたかもしれないが,本当に「物心」がついてから訪れたのは金閣寺の近くの大学で働くことになってからである。僕が三島由紀夫の『金閣寺』を読んだのは,そんな「物心」がついてからである。
三島由紀夫が死んだのは,僕が高校一年生の時だった。隣のクラスのF君がそれを知り,わざわざ僕のクラスまで興奮した面持ちで,知らせに来ていたのを覚えている。同じ高校一年生でありながら,僕と違ってその時点で既に様々な文学や思想に触れて精神的に成熟していた友人たちがいたのだ。恥ずかしながら僕はその時,それがどれだけ大変なことなのかを理解できなかった。
その後僕は『金閣寺』をはじめ,様々な文学に触れ,高校一年生の時点でこのような文学に既に親しみそれを理解していた彼らとの違いに絶望的になった。自分で言うのも何だが,僕が通った中学・高校は,当時はそのあたりの(小学校の)秀才が通う学校だった。秀才といっても,彼らのように精神も「成熟した」本当の秀才と,僕のように小学校でちょっとだけ成績が良かっただけのただの「子供」も同居する自由放任の不思議な学校だった。
そういうわけで金閣寺といえば,三島由紀夫の『金閣寺』をどうしても連想してしまう。三島は僕が小学生時代を過ごした加古川に本籍があり,徴兵検査を加古川で受けたらしい。そのため彼の考え方には同調できないものも多いが,彼はずっと気になる小説家の一人だった。
木版画はまさに小説『金閣寺』そのものである。金色の篆刻は「鹿苑寺」。小説では金閣の漱清についての記述があるが,版画ではそれを描かず,金閣本体だけに留めた。何か全てをリアルに描写するのは気持ちが悪かった。
(注記)本文中のF君は,小野桜づつみ回廊で書いた映画のF君とは別人である。小野桜づつみ回廊へ行った後,同じ中学高校へ小野から通学していた映画のF君に,簡単な版画のハガキを出した。返信不要と書いていたのだが,しばらくして,彼から返信が来た。懐かしいことがたくさん書かれていた。その中で,かつてアムステルダムで,在住の同級生F君とも旧交を温めたとあった。F君がアムステルダムにいたとは全く知らなかった。あれだけ頻繁にオランダへ通い,帰国の前日は決まってアムステルダムに滞留したのに会うこともなかったことは残念だ。アムステルダムのF君は秀才だがとても温厚な人だったことはよく覚えている。映画のF君が,アムステルダムのF君のことを考えている時,ちょうど僕もこの版画の下絵を描きながらアムステルダムのF君のことが頭に浮かんでいた。偶然ではないような気がする。
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