Dさんのことを「Dさん」と呼ぶようになったのはいつ頃だっただろう。Dさんは学部も大学院も僕の3学年先輩だが,最初の出会いは,僕が大学院・修士課程1年生の時だった。その時Dさんは既に大学の助手であり,学生の僕は「D先生」と呼んでいたと思う。事実,修士論文の作成に必要な数学的な方法をDさんに指導してもらった記憶がある。その後,Dさんは別の大学に異動し,僕も別の大学の助手に採用され,独立に研究者の道を進んでいた。
それが再び同じ大学に勤めることとなり,いつの間にか気軽に「Dさん」と呼べる間柄になった。気軽といっても,一方的に先輩のDさんに助けてもらうばかりだったという点では,以前と変わりはない。物静かで思慮深いDさんと,おしゃべりで慌て者の僕が,親しいと知り驚く人が多かったが,どこか根底で通じることろがあったのだろう。
Dさんはアメリカの大学院で博士号をとった。別の大学に勤めていたもう一人の畏友O君もそうだ。僕はもちろん国産の博士号しか持っていないが,こういう友人達にずっと囲まれていたこと,そして学生時代に指導を受けた先生がそうであったことから,国際的な場で研究をしなければならないという強迫観念があった。もしこのような先生や友人がいなければ,もっと気楽に研究者生活を送ることが出来ただろう。
外国,特にアメリカで教育を受けたことがない僕が,国際的な場で研究活動をすることがどんなに大変なことかということをDさんはよくわかっていてくれたんだと思う。苦手な英語で編集者や査読者とのやり取りを経て,やっと論文の掲載が決まった時,その過程を見守ってくれていたDさんは自分のことのように喜んでくれて「Tさん,よく頑張ったねえ。」と,時にはご馳走までして労ってくれた。
実は,「クルルのおじさん(→こちら)」に書いてあるように,Dさんはもういない。二人展はDさんとの最後の約束だった。二人展が終わり,準備から撤収まで献身的に手伝ってくれた二人に共通の知人Sさんを,帰り道にあるご自宅まで送った後,一人車で有馬街道を家まで帰った。自分でも「よくやり切った」と感慨深く,やはりDさんが「Tさん,よく頑張ったねえ。ありがとう」と言ってくれているようだった。ちょうど有馬街道のトンネルを出ようとしていた。
この一年半,Dさんはいつも僕の斜め後ろにいるような気がしていた。それがトンネルから出た時,Dさんがその言葉とともにスーッと,異なる次元の世界へいってしまったような気がして,感情が溢れ出てしまった。いい先輩だった。