実は,僕には一回り違いの姉,つまり12歳年上の姉がいる。Y姉さんだ。正確には本当の姉ではないのだが,小学生の頃から僕は彼女が大好きで,ずっと姉だと思っていた。そのころY姉さんは四国の宇和島に住んでいた。そして毎年夏になると,僕の家を一人で訪ねてきて何日間か泊まっていった。夏になって,母が「いついつYちゃんが来る」と話すのを聞くと僕はとても楽しみで,わくわくしたのを思い出す。
小学校6年生の夏頃だったように思う。そのY姉さんを訪ねて祖母と二人で宇和島へ行った。僕にとって初めての長旅だった。今のように四国と本州の間に橋があるわけではなく,岡山の宇野で列車から連絡線(宇高連絡船)に乗り換えて高松に渡り,その先は予讃線で宇和島まで列車で行くという気の遠くなるほど長い旅だった。事実朝早く急行「瀬戸」にのって出発し,宇和島に到着したのは夕方だった。宇和島の人には失礼な言い方かもしれないが,当時の僕にとって地の果てまで行くような気持ちだった。
Y姉さんはそのとき既にH兄さんと結婚していて小さな家に住んでいたが,そこへ僕たち二人が転がり込んだわけで,小さな家の人口密度は一度に二倍になった。ちょうど夏祭りの頃で,闘牛を見物したり,お祭りの最後には,神輿が海の中へ入っていったという記憶がある。奉天という中国の街の名前のついたお店で餃子を食べたり,もっと立派なお店でビフテキを食べたり全てが初めての経験だった。
宇和島でも地の果てに来たと思っていたのに,そこからさらにH兄さんの運転する車で四人,山を越え谷を越え,海辺を走り,高知県との県境に近い城辺という小さな町まで行くことになった。城辺には,もう一人お婆さんがいた。祖母とY姉さんは,とても長い間,それも一週間や一年という期間でなくもっともっと長い時間を経てその人と再会したようだった。詳しい経緯はよくわからない。
城辺の町への道路で,宿毛(すくも)という道路表示があったのを覚えている。そのころ,少年雑誌の漫画に「宿毛の〇〇」という忍者が登場し,僕はその宿毛の近くまで来ているんだ,と妙にわくわくしたのを覚えている。今となって地図を見ればまだずいぶん離れているが,僕は「四万十川」と聞けば,いつもその時の地の果てまでのドライブを思い出す。
明後日5月5日は子供の日だ。既に町のあちこちで鯉のぼりが目につくようになったが,鯉のぼりの木版画を作ることにした。コロナやウクライナという気の沈むことばかりの中,パーっと気持ちが晴れるような木版画を作りたくて,四万十川の「鯉のぼりの川渡し」をイメージしたものを作成した。ちょうど県立美術館で習ったばかりの「木目を生かす」手法で四万十川の波を表している。鯉のぼりの色も非現実的だが,プリズムの分光のとおりの虹の七色になっている。篆刻は「廻文(右上から反時計回りに読む)」で四万十川。
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虹色鯉のぼり:四万十の川渡し |
城辺からの復路は海沿いの道を走り,波の荒い海で泳いだり,「馬の淵温泉?」という温泉でお風呂に入ったり,この祖母との四国旅行は僕の大冒険だった。自分でも驚くほど,正確にすべてのことを覚えている。
Y姉さんは今松山に一人住んでいる。近くに娘のNがいるから安心だなのだが,少しコロナが収まれば会いに行こうかと考えている。実は四国には知り合いが何人かいる。ゼミの一期生(秀才揃い)のT君が高松に住んでいるし,同じく一期生の三人の女性のうちの一人は今治に住んでいるはずだ。少し前から音信が途絶えているのが少し心配だ。城辺には大学時代の同級生S君が住んでいるはずだ。そして高知には,大学のゼミの後輩のC君がいる。気候が良いうちに幌を開いて一人のんびりロードスターで四国を一周するのも良いだろう。
四万十に 鯉空泳ぎ 夏来たる
四万十の 空いっぱいの 鯉のぼり
四万十の 空を泳ぐや 鯉のぼり